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MICHINARIのボサノヴァと私
第一回 ジョアン・ジルベルト



 奇妙で矛盾した表現だが、僕には、「会いたいが、会いたくない人」というのがいる。太宰治とジョアン・ジルベルトのふたりだ。太宰治はもう、会おうと思ったって会えないが、ジョアンのほうはまだ生きている。しかも僕の住むコパカバーナの隣の隣、レブロンのとあるマンションの11階だか12階に。でも彼は人に会うのを極端に避けてるらしいから、これまた会おうとして簡単に会える人ではないが。
 しかし、待て、「会いたいが、会いたくない」とはどういう意味か。そして太宰は知ってるが、ジョアンてのは、何者?お答えいたしましょう。

 まず最初の質問から。僕は昔ずいぶん熱心な太宰治のファンだったが、或る晩、夢の中で彼が講演かなんかしてるのを、彼のすぐ近くで聞いていたことがある。夢の中の僕は感激で涙をこぼし始めた。あまりの感激に目を覚ましてしまったのだが、なんと僕の顔は本当に涙で濡れていた。彼に会えた感動がよほど強かったのだろう。が、冷静に考えれば、僕は実際の太宰に会わなくても、もう彼の作品の中で、そして僕の心の中で、会い過ぎるほど彼に会ってしまっているのだ。これ以上、彼に会う必要があるだろうか。太宰は僕の中で完成されてしまっている。彼に「実際に」会うこと、それは僕らの関係においては、なんだか些末な、余計なことのように思われる。つまり、「会いたくない」となる。
 さて次に、ジョアンって誰。バイーア州ジュアゼイロ出身。ボサノヴァの創造者とも言われる天才的なアーチスト。現在75才を越えてなお現役演奏家(もう滅多に人前で演奏しないが)。どんなふうにすごいのかは、彼の録音と、他のボサノヴァ系のアーチスト達の録音とを聴き比べてみれば、「一聴」瞭然であろう。なに、わからん?!

   よく言われる「ささやくように歌う」ボサノヴァの唱法は別に彼だけのものではないし、ギターの奏法も彼が編み出したと言われるが、今では似たようなことは皆やっている。演奏する曲目も、これといって特別なものじゃない。だいいち殆どが他人の作品だ。正直言って、彼より上手にギターを弾く人はブラジルにはいくらでもいる。歌でいえば、正確な音程で歌うと言われる彼より、もっと正確に歌う人はいる。ジョアンの声が素敵と言ったって、もっと魅力的なささやきで歌う人はいる。じゃあ、いったい何だってお前はそんなにジョアンを評価するんだって問いつめられたら、ちょっと硬い言い方だけれど、こう答えるしかない。「ジョアンは、演奏という行為そのもので思想を実践しているから」。いつだったか車の中でジョアンのCDをかけていたら、後部座席にいた父が「これは、歌?」といぶかしげに聞いて来たことがある。御明察でした。
 実際、彼の歌唱は殆ど読経に聞こえる。そうしてその声とギターとで、「静寂」、「平和」、「調和」、ああ、なんだかよくわからんが、「自己と宇宙の一体化」といったらいいのか、そんなものに向けてひたすら時間の中を歌い進んでいるだけのような気がするのだ。少なくとも確信をもって言えることは、彼の音楽は本質的に、彼が生きる「時代」とか、ロマンチックな「叙情性」とか、また「カリオカ」的な生き方のスタイルとも無縁のところで生まれているということ。極めて個人的な世界だ。この点においてだけでも、彼の音楽は他の並みいるボサノヴァ人のボサノヴァ、とは、ぶっとい一線を画するのであった。ひょっとするとジョアンのはボサノヴァ、じゃないのかも。ジョアンはジョアンだ。だから誰にも真似できないし、彼が死んだらもうそれっきりだ。でもね、その芸術は真似できないとしても、芸術家ジョアンが目指しているものは受け継がれてゆくべきじゃないかと思うんだな。声とギターと、そして静寂の、三つの要素による調和の"pratica(実践)"。たとえ「実践」でも僕らを夢想境に誘ってくれるのは、やはり彼の音楽が美しい「宇宙の調和」を奏でているからだろう。
 で、「会いたくない」のか、結局?そうねえ、読んでくれた人は、もうわかってるでしょう。僕はもう、会い過ぎるほどジョアンに会っている。


(Pindorama 2006年6月号より転載)


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