MICHINARIのボサノヴァと私
第二回 アントニオ・カルロス・ジョビン



 ボサノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンは音の建築家である。さほど大きくはないその建築物は、しかし美しく変化に富んで人を飽きさせない。モダンで「硬質」な手触りと、極めて精巧な「構造」を感じさせるが、愛による建築物だから住み心地はたいへん良い。そしてこの建築家は、住人が勝手に壁の色を塗り変えたり、リフォームしたりすることを好まない。すでに完璧に完成された美しさがあるからだ。家のほうが住人を住まわせてやってるようなところもある。つまり可愛げはない。住人は慎ましく正しく住むことだけが許されている。わーわー騒いだり、わんわん泣いたりしてもいけない。家の品格を傷つける行為は厳に慎まねばならない。が、不思議なことに、この家の空気に忠実に従って、過剰な飲食や、感情の激しい起伏を避け、正しく穏やかにこの家に住んでいるだけで、健やかな幸福を得られる。まあ、そんなのがジョビンの曲だ、と僕は思う。

 ためしに名曲「デザフィナード」を歌い直してみよう。ヴィブラートをつけてみる。と、合わないね。却下。「小節(こぶし)」をつけてみる。まったくみにくい。即却下。強弱による表情の変化をつけてみる。意味がない。これも却下。どう装飾しても、すぐ剥げ落ちてしまうから、何もしないことにする。今度はうまく行った。つまりだ、この曲はただひたすら、旋律を正しい音程で、強弱をつけず、小声でまっすぐ歌うことを歌手に要求しているのだ。歌唱の技術的な小細工はこの曲の完璧な美しさをこわしてしまう。この「デザフィナード」に限らず、ジョビンの名曲達は、世界の大衆歌曲の中でも珍しい、歌われる前にすでに美が完成されている曲達なのだ。歌ってその美を壊してしまう可能性はあっても、歌ってその美が増すと言うことは、ほとんどないと言っていい。適切な声と詞を得て、美しい曲がこの世に具現するだけだ。「歌の巧い」歌手は、きっとその技の見せ所を見つけだせず欲求不満に陥るだろう。僕もジョビンの曲達が大好きだけれど、実を言うと、ときどき、歌いながらやはり欲求不満になることがある。元来歌手というものは、歌いながら創造するのが仕事なのだ。「旋律と詞」という題材を、「声」という色彩の筆で、「空間と時間」というキャンバスに自由に描き出す画家のようなものだ。しかるにジョビンは、きちっと決められた旋律のラインを声で「なぞる」ことしか許さない。歌いながら、俺は仕事をしてないんじゃないかというような気にさえなる。ジョビンの曲の前で歌手達は、技術の武装を解き、ジョビン芸術の美の単なる具現者に甘んじなければならない。

 しかしながらジョビンの旋律を正確に歌う難しさは、実は生半可なものではない。複雑な和音の構成音と、ときに半音でぶつかりあう不協和な旋律を、リズムに乗りながら脱線させずに声でなぞるということは、たいへんな注意力と忍耐力とを要求する。これは朗々と「オ〜ソ〜レミ〜オ〜」とか歌うのとはまったく異なる種類の作業だ。うむ、ジョビンの曲を歌うということは、創造ではないかも知れないが、これも愛と忍耐の「仕事」には違いない。しかし、表現の自由を奪わてなお、なんとまた魅力的な仕事だろうか。ジョビンの美は、平和の美だ。詞でなく、曲がすでに平和を歌っている。歌うものが平和を感じ、聴くものをまた平和にさせる、美しい仕事なのだ。

 さて、ジョビンの曲を歌うことは、ジョビン芸術の美の具現者になるということだ、と書いた。なるほどジョビンの曲は、つねに歌手を凌駕している。が、これと対等に渡り合える歌手が、世界にひとりだけいた。歌う曲達を、すべてその「読経」芸術の素材にしてしまう恐るべき弾き語りのmonge(隠遁の求道者)、ジョアン・ジルベルトだ。歌手のことをちっとも考えない作曲家ジョビンと、作曲家のことをちっとも考えない演奏家ジョアン。この一見相容れない二人の天才の不思議なコラボレーションがボサノヴァを開花させたのであった。ジョアン・ジルベルトが歌う「デザフィナード」。完璧だ。





デザフィナード:
ジョビンが友人ネウトン・メンドンサと共作したボサノヴァの名曲。詞と曲の両方に渡っての共作と思われるが、徹頭徹尾ジョビンらしい作風を示しているので、あえてここに引いた。

「読経」芸術:
本誌前号で、筆者はジョアン・ジルベルトについて「実際、彼の歌唱は殆ど読経に聞こえる。」と評している。


(Pindorama 2006年7月号より転載)


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