新・一枚のブラジル音楽~臼田道成




ドゥルヴァル・フェレイラ 「バチーダ・ジフェレンチ」
(Durval Ferreira "Batida Diferente")

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リオには、もはやボサノヴァは生きていない。海外で生き延びているだけだ。7年前リオに住み始めて間もなく僕はそう悟ったのだが、実はたったひとり、このボサノヴァの故郷リオで気を吐く老ボサノヴァ人がいたのだった。その名はドゥルヴァル・フェレイラ。
1935年生まれという事だから、あのロベルト・メネスカルより2歳年長、つまりボサノヴァの最盛期を知る生粋のボサノヴァ人ということになる。お恥ずかしい話だが、僕は彼について、名曲「Tristeza de nos dois/私たち二人の悲しみ」の作曲家としてしか知らなかった。このアルバムCD「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いて、ああ、これも聴いたことがある、それも、あれも、という具合でようやく彼の、ボサノヴァ作曲家としての重要性を知った次第である。

ドゥルヴァル氏とは、イパネマにあった「アントニーノ」というジャズ・ライブハウスで知り合って以来、数カ所で言葉を交わした程度だが、その印象は「笑顔、笑顔、そして笑顔」である。そう、名優ドナルド・サザーランドばりの個性的な鋭い視線で、顔をくしゃくしゃにして、笑う。演奏中も、実に楽しそう。こんなにウキウキとした喜びを顔じゅう、いや体じゅうにたたえながらボサノヴァを、「哀愁」のボサノヴァを演奏する人を僕は知らない。ボサノヴァはまだリオに生きている、そう思わせる真正ボサノヴァ人だった。

この「バチーダ・ジフェレンチ」を聴いても、その笑顔は容易に聴くものの眼前に浮かんで来るはずだ。幕開けの”Estamos ai”を聴けば、ボサノヴァってこんなに楽しいの!?と、誰もが驚くであろう。続く2、3、4曲目と哀愁に満ちたスローナンバーが続いても、決してけだるくアンニュイな感じはしない。リオのたそがれの、健康な哀愁が漂っているだけだ。
そう、ドゥルヴァル氏の音楽は「リオ」なのだ。パリでも、ニューヨークでも、東京でもない、健康なリオがそこに見える。

そんな健康なリオのボサノヴァを、笑顔いっぱいに演奏しつづけたドゥルヴァル氏も癌という病には克てず、2007年、72歳で逝った。これにて、事実上リオのボサノヴァの灯は消えたのではないかという思いさえ抱いたものだ。
翌2008年、ボサノヴァの50周年を祝って、あれは7月だったであろうか、イパネマ海岸において、ロベルト・メネスカル、マルコス・ヴァーリ、ジョイスなど、有名ボサノヴァ人たちを集めて、一大イベントが行われたが、その際、僕が心から残念に思ったのは、ボサノヴァへの逆風強いリオで、笑顔で孤軍奮闘を続けたドゥルヴァル氏の姿が見られなかったことだ。ふだん海外で喝采に包まれて活動するボサノヴァ人たちより、このブラジルで、リオで、ボサノヴァを半世紀に渡って守り続けようとした彼にこそ、このイベントはふさわしいものではなかったか。

何度目にお会いしたときだろうか、「おい、もう俺のCD買ったか?アメリカでも評価が高いんだぞ!」と、あの強烈な笑顔で嬉しそうに話しかけて来たのを思い出す。僕はそのとき、まだ買ってなくて返答に困ったのだが、彼がもう亡くなってからようやく購入して、ああ、なぜもっと早く聴かなかったろうか、と後悔したものだ。遅まきながら、お答えしましょう、ドゥルヴァルさん、これは素晴らしいアルバムですよ!Parabens!(おめでとう!)。
あとで知った事だが、なんと、彼の長いボサノヴァ人生において、死の4年前に録音されたこのCDこそ、彼の初ソロ・アルバムだったのだ。収録されている曲は、多くの演奏家に録音されて来た往年の名曲ばかりだが、生まれて初めて自作自演アルバムを録音する老ドゥルヴァル氏の喜びが、アルバムの全編に溢れている。制作を指揮する彼の喜びが、参加者全員の奏でる、ぴちぴちと生きの良い音を通じて僕らの心に伝わって来るのだ。
生粋のボサノヴァ人、ドゥルヴァル・フェレイラが、その人生の形見に残した「バチーダ・ジフェレンチ」。遅れてやってきた、ボサノヴァの名盤である。

(PINDORAMA 2010年3月号より転載)

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