新・一枚のブラジル音楽〜臼田道成




ルイス・ボンファ 「ボサノヴァ」
(Luiz Bonfá “Bossa Nova”)

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「あなたとブラジル音楽の出会いはどんなものだったのですか?」
その問いに対して、僕ははっきりと、どのような状況で、何の曲であったか、明確に答えることができる。あれは26年前の大学受験浪人中、ある秋の夕暮れであった。何の気なしに聞いていたFMラジオから流れて来たひとつの旋律。なんと美しい旋律であろうか。僕の心は、その哀切なそよ風のような調べに完全にさらわれた。

実はその曲は、有名な映画音楽としてすでに知っていたものであったが、ギターによるその演奏は、いわゆる“brasilidade(ブラジル性)”と“saudade(懐かしさ)”に満ち満ちた演奏だったのだ。僕はその瞬間「恋」に落ちた。ブラジル音楽というものに。そしてその日を境に、僕の全情熱は一気にブラジル音楽へと傾けられることになったのだ。

僕のその後の運命を変えたその曲の名は「カーニバルの朝(Manhã de carnaval)」。そして、そのギターの音色の主は、僕の記憶が定かであるならば、「ルイス・ボンファ(Luiz Bonfá)」。この名曲の作曲者本人である(あの演奏の後、確かアナウンサーがこの名を告げたと記憶している)。(註1) この「カーニバルの朝」、たぶん日本においては、世界でビートルズの「イエスタデイ」に次いで多く演奏されるという一大名曲「イパネマの娘」よりも、親しまれているであろうというのが僕の見解である。しかも、この正式名称でなく「黒いオルフェ」として、である。「ああ、あの曲か」、と今膝を打った方もいらっしゃるのではないか。そう、この曲は、1959年カンヌ映画祭グランプリ受賞作品の映画「黒いオルフェ」の挿入歌として世界に広まったのである。この曲が日本でとりわけ愛されてきたのは、南国のエキゾチシズムよりも、むしろ日本の歌謡、特に演歌に通じるような哀切な短調の旋律が私たち日本人の琴線に触れるからであろう。

僕は、この曲を耳にして「これがボサノヴァというものなのだろうか」と思い、その後ボサノヴァ、ボサノヴァと探しまわることになるのだが、実はこの曲は厳密にはボサノヴァではなく、ボサノヴァ以前に流行った、「サンバ・カンサゥン」というスタイルのものであった。サンバ・カンサゥンの名は昨今のブラジルでは、時代遅れの男性下着の俗称(いわゆるデカパン)として利用されるまでに成り下がっている。 今回ここにご紹介するアルバムも、このコーナーで以前とりあげたボサノヴァの名盤「ゲッツ・ジルベルト」と同じプロデューサー、クリード・テーラーにより制作され、またタイトルに「ボサノヴァ」の名を冠しているにも関わらず、僕にはしっかりサンバ・カンサゥンのアルバムに聞こえる。陰翳に富み美しい旋律、溢れるような叙情性。やはり、ボンファはサンバ・カンサゥン世代の古いギタリストか、と切り捨てる寸前で、僕はボサノヴァにまつわる一つの言葉を思い出す。

Intimidade「親密」。たった1メートル前にいる、たった一人に向けて奏でられる親密な音楽、それがボサノヴァだと、僕は思っている。歌でそれをもっとも上手に行なうことができる人は、ジョアン・ジルベルト。ギターでもっともそれを上手に行えた人が、このルイス・ボンファなのかも知れない。そしてその「親密」ということこそが、このサンバ・カンサゥン世代のギタリスト、ルイス・ボンファとボサノヴァとを結びつける重要な一点であったと、僕は思う。

実際、彼の演奏を聞いてみれば、そのギターの音色はまるで耳元の甘く優しい囁きのよう。涼やかでいて温かく、そして声を荒げることが決してない。これはつまりジョアン・ジルベルトが声で行なっていることではないか。ジョアンがボンファに捧げた曲(註2)があることを考えても、二人の間に共通に流れているものを見落とすことはできない。

つらつらとそんなことを考えながら、この一枚13曲を聞き終えるとき、僕は再び思い出すのだ。あの秋の夕暮れのひとときを。そして現在の自分を再確認する。26年前、一瞬にして「恋」に落ちた僕が、長くつらい大恋愛の末、今ではブラジル音楽と幸せに“casado”、結ばれていることを。離婚?ありえないだろうなあ。ことブラジル音楽とは。

註1:
このアルバム収録の「カーニバルの朝」は、筆者が最初に聞いた演奏とは別の録音です。

註2:
Um abraço no Bonfá(ジョアン・ジルベルト作曲)



(PINDORAMA 2011年6月号より転載)

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