新・一枚のブラジル音楽〜臼田道成





ジョアン・ジルベルト「声とギター」
(João Gilberto "Voz e violão")



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なぜ、自分は弾き語りという演奏形式にこだわり続けるのだろうか。僕という音楽家は、中学校時代に買ってもらったギターでアルペジオをたどたどしくつま弾きながら、フォークソング「花はどこへ行った」を歌ったときから30数年間、弾き語りを追求してきた人間だ。ギター弾き語りの最初の「心の師匠」は、高校時代に知った70年代アメリカ音楽の至宝ジャクソン・ブラウン。続いて学び始めたピアノ弾き語りの「心の師匠」はご存知“ピアノマン”、ビリー・ジョエルだった。そしてしばし間を挟んで、二十歳の頃に出会った第三の「心の師匠」がジョアン・ジルベルト。
弾き語りは、それがギター弾き語りであれ、ピアノ弾き語りであれ、二人の音楽家による合奏、つまり歌手とギタリスト、または歌手とピアニストのアンサンブルとは、絶対に異なる「何か」を備えている。その「何か」を語りながら、この世界の弾き語り芸術家の最高峰とも言える巨匠ジョアン・ジルベルトの「声とギター」を紹介したいと思う。

僕の中で、「ボサノヴァとの出会い」と「ジョアン・ジルベルトとの出会い」は別個の意味合いを持っている。前者は、未知の音楽ジャンルとの出会いであり、僕にとって全く新しい「演奏活動のフィールド」の発見であった。それに対して後者は、先に紹介した、ジャクソン・ブラウン、ビリー・ジョエルに続く、「もう一人の」目標とすべき弾き語り奏者の発見、であった。まさに「こんなところに、こんなふうに弾き語る天才がまだいたのか」という驚きであったと記憶している。であるから、ジョアン・ジルベルトが、ボサノヴァを弾き語ろうが、演歌を弾き語ろうが(そんなことはあり得ないが)、僕にはどうでも良いことである。優れた弾き語り奏者の前で、楽曲は、彼の弾き語り芸術を表現するための「素材」に過ぎない。こういう言い方をすると、楽曲への尊敬が足りないとの批判を受けるかもしれないが、もちろん楽曲への愛情なしには演奏は不可能である。ただ、弾き語りという演奏形式では、作曲家の意図するものを正しく伝える、または美しく現実化させるというのとは別の、いわば演奏家個人の「身体パフォーマンス」芸術としての側面が重要だと思うのである。それはどういうことか。

弾き語りを大まかに分解すると、ノドおよび口による「言葉と音声」のパフォーマンスと、楽器を奏でる腕および指による「伴奏」のパフォーマンスの二つ。その二つの運動を頭脳が意識的、または無意識的に神経を通して、筋肉に命令してコントロールする。実は、この頭脳により下される「同時多方向」命令にこそ、最初に指摘した「二人の音楽家による合奏」との最大の違いがあると言える。
例えばギター弾き語りの場合、脳が「このポイントで、このように発声せよ!」とノドに命ずる。同時に「ギターはそれより、ほんの一瞬だけ遅れて撥弦せよ。しかも音量はこれくらい。タッチはこんな感じで!」と右手指に細かく命ずる。それだけない、押弦する左手、発声のための腹筋、背筋、リズムをとる足、つまり体のすべての部分に向けてこうした命令が、一人の人間の体の中で、曲の最初から最後の瞬間まで途切れることなく精神集中を持ってなされるのが、優れた弾き語り芸術である。優れた歌手と、優れたギタリストが合奏したからといって、優れた声とギターのアンサンブルができると思ったら、大間違いである。どこまで二人で練習を積んでも弾き語りの「同時多方向」命令の速さと正確さには勝てないだろう。決して上手ではないが、心のこもった歌唱を聞かせる歌手が、たいして上手ではないギターをつまびいて、聴衆を感動させることがあるのは、この頭脳の命令系統が功を奏しているからであると、僕は思う。
言ってみれば、弾き語り奏者の脳はオーケストラの「指揮者」であり、また各楽器(ノドと楽器)の音量、音質バランスを整える「ミキサー」である。すなわち、弾き語りとは小さなオーケストラ、小さなバンド。そしてさらに、優れた弾き語り芸術家は、声と楽器の完全な合一を果たすことで、彼だけの個人的な「世界」「小宇宙」といった、何かオーラのようなものを、彼を包む空間に現出させるに至る。
2003年9月の東京、満席の五千人の聴衆を前に、たった一人椅子に座り、背を丸め、微動だにせず小声で弾き語り続けた72歳のジョアンが僕らに見せてくれたもの。それはまさに静寂と調和の「小宇宙」だった。僕らは、と言っては語弊があるか、少なくとも僕はあのとき音楽を、ボサノヴァを、楽しんでいたのではないと思う。孤高の弾き語り芸術家の体を包んでいた「小宇宙」の現出を固唾を飲んで、見つめていたのだ。

本作品は2000年、巨匠が69歳の頃に発表した、文字通り、声とギターだけによる正真正銘、弾き語りアルバムである。驚くべきことに、この弾き語りの巨匠が発表した数々のアルバムの殆どがストリングスやパーカッションが入った、編曲が施されたものばかりなのである。そう言う意味でも貴重な一枚。そしてアルバムの最後を締めくくるのは、1958年にジョアンが弾き語り芸術家としての出発点を刻んだあの名曲、「シェガ・ジ・サウダージ」。42年の年輪を感じさせる演奏である。
巨匠も、もはや80の齢を越え、活動の噂も耳にしなくなった。演奏が身体表現である以上、年齢とともに活動が困難になるのは、いたしかたないことだ。ならば、僕らにこのような貴重な「弾き語り芸術の遺産」を残してくれたジョアンに心より感謝。この作品は、僕ら後進の弾き語り奏者たちにとって、未来への最良の道しるべだ。そして、人類が未来世紀に「ボサノヴァ弾き語り」というものが何であったかを知るための、最良の資料になることだろう。




(PINDORAMA 2013年9月号より転載)

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