アルゴ号航海日誌2001~captain's journal
(新しいものが上になります)





2001年4月27日(金)晴れ

3年ぶりに風邪をひいた。一昨日の夕方、教室を終えようとするころ、何だか薄ら寒いな、と感じながらも薄着でいたら、やがてノドに来た。咽頭炎というやつである。私の風邪は人一倍重いのが通例なので、昨日はだいじをとって、一日中寝て過ごした。ふだんの私なら、目をつむっていれば、いつのまにか眠ってしまう、などありえないことなのだが、やはりここのところ忙しい毎日が続いていたからであろう。久々に「休んだ」気がした。今日は「ノド期」を過ぎ、「鼻期」である。やたらに鼻水が出る。これを風邪の進行と見るべきか、退行と見るべきか、定かではないが、気分は大変よろしいので、これはもう治りかけであろう、と勝手に思っている。
明日からは、また5日間の教室が待っているのだから、本来なら、今日も体を休めておきたいところだが、そうも行かぬ。来月の教室発表会の準備(生徒の練習用カラオケ制作)のため、アレンジャーのマサ池田宅に行かねばならないのだ。

さて、夕刻家を出しなに、いくつか用事を済ませたら、財布が空になり、こりゃいかん、というので駅前のCD機(キャッシュディスペンサーの略はこれでよいのか?知らん)で金をおろし、外に出て、小走りに道を横切ったその刹那、背後から
「あ、ちょっとすみません!」と呼び止める声。
「は!?」振り向く私。道の真ん中に、急停車させたらしい、青い小型の車。その窓から40がらみの男が顔を出している。道でも尋ねるつもりなのかと近づけば、
「あのー、時計、もらってくれませんかねぇ」
「は!?」と再度私。
男、何やら白く長細い箱を取りだし
「ロンジンって知ってますぅ?」
「・・・・」
私は完全に虚を突かれたていである。
そこからの話を要約すると、何でも彼は時計やら貴金属をどこぞの店に納める仕事をしているらしく、今はその帰り道なのだという。そして売れ残りがこのように少々あり、それを持って帰ると、上司に叱られるとかで、誰でもよいから、あげてしまいたいのだと、困ったような、人なつっこい笑顔で、半ば訴えるような調子で言うのだ。そのロンジンとかいう時計(派手な金色で、全く私の趣味に合わない)、それに「これも一緒にどうぞ」と、これまた金色の鎖のネックレスを差し出し、そのどちらもケースに入って売り物の体裁は整っていた。しかし、たった今、財布が空になって、CD機から、しかも残額僅少の口座からエイッとばかりに小額引き出し、春だというに口にはマスク、身にはヨレヨレの、刑事コロンボばりのコートを羽織ったあやしげな男に、どうしてこんなキンキラのものをくれようと思ったか、それが不思議ではあったが、くれるというものを断る理由も、またない。
言われるままに、こちらももらう体勢に入っていった。
「まあ、デザインが気に入らなかったら、質屋さんに持ってゆけば32万円くらいにはなりますから。」と男。
「ふーむ、なるほど。」
話がここにいたって、にわかに船長、欲が出てきた。くれるというものを断る必要もあるまい、という一種超然とした態度から、「32万円あれば、あれ、買えるな・・・」というはなはだ下品(げぼん)の心に、一気に堕落した。
そこへすかさず、この男、
「でもね、せめて今日、一杯だけでも飲みたいんですよね。」
「・・・・」
何を言いたいのか、一瞬わからなかったのだが(私と、どこかで一杯酌み交わしたいのか、こいつは、とも思った)、なるほど、こやつは、この品物をくれてやる代りに、いくばくか恵んでくれ、というのだなと理解した。しかし、この時点でこの話のバカらしさに気がつかなかった私は、やはりどうかしていたとしか思えない。「そうでしょうとも、お疲れでしょうとも、仕事の後、一杯飲みたいでしょうとも」と憐れみの気持ちすら起っていたらしい。何の疑念も持たない私は、財布を取りだし、中をのぞき込みながら、
「でもねえ、金、あんまり持ってないんですよね、いや、ほんとに。」
事実、おろした金は千円札5枚ばかりだ。
「いやあ、いくらでもいいんですよ」と軽快に応える男。
されば2千円、と思ったが、2千円の喜捨(と思わせたところがこの男の妙技)で32万円相当のものを頂戴するというのでは、話がうますぎる。申し訳が立たない(誰にだ!)。ならば、3千円、という理屈にならない理屈で、
「じゃ、3千円で、どうですかね」
この瞬間、明らかに、この男は虚を突かれた表情になった。も少しは、ふんだくれると思っていたのだろう。マスクにヨレヨレコートにボサボサ頭とは言え、たった今金をおろして出てきた男だ。一万円札の何枚かは持っている、そう考えても無理はない。そこへ来て「3千円」である。交換ではないとは言え、32万と3千。
虚を突かれてその気になった男と、そいつにさらに虚を突かれ、脱力する男。その二人の間に流れる、まったく奇妙な空気・・。そうだ、これが春の空気だ。だまされても、さほど不快でない、このゆるい空気。
これが冬であれば、今ごろ、だまされたと知った私は、もっと険しい心になっていたろう。憎んだろう。許さなかったろう。いや、そもそもこんな安手の詐欺に、日頃から用心深い私が引っ掛かるわけが無い。また夏であったなら、引っ掛からぬどころか、「うっとうしいのは、この暑さだけで十分だ!」とばかりに、あやつを追い払ったであろう。
しかるに、この春の夕暮れである。
すべて、ぼんやりしているのである。おまけに、風邪をひいて、私の脳はぼやけているのである。
その男の、なんとも人なつっこい、困ったような笑顔と、いやみの無い流ちょうな語り口、青い小さなシトロエンのつましさに、うっかり、というより、すっかり、安心してだまされた。いや、だまされてやった。話を元に戻そう。

「3千円・・」の言葉に、しばし無表情に、虚空を見つめた男であった。
さしものボケ船長も、このあたりから正気に戻ってきたらしく、
「これじゃ飲み代にならないんでしたら、他にもっと(金を)持ってそうな人、探したほうが、いいですよ。」
すると男は、また例の困ったような(今度はほんとに困ったようであったが)、人なつっこい笑顔に戻り、
「いや、・・それじゃ、これだけ(と言ってネックレスを差し)、差し上げます。これも何かの縁ですから。それじゃ!」と言い残し、3千円とともに去って行ったのである。
青いシトロエンの後ろ姿を見送りながら、初めて「してやられた!」と思った。
「あいつ、またあの辺りで誰かつかまえて、同じことを言うに違いない!」
そして、財布の中身が、また2千円に減ってしまったことに気付き、「お、こりゃいかん」と再び金をおろしに戻ったバカさ加減である。もはや、コートのポケットに押し込んだネックレスが何万円もする代物だなどとは思っちゃいない。
「春だ、春だ、春のせいだ!」と振り払うように車を馳せ、一路マサ池田宅へ。

いつも優しい笑顔で迎えてくれる幸子夫人に、ことの一部始終を話し、
「なんで、俺みたいな、こんなあやしい貧乏じみた風体の男を選んだのかねえ」
と尋ねると、やはり優しい笑顔で
「臼田さん、風邪ひいてるからですよ。そういう人(詐欺師)って、弱ってる人を見 つけるのがうまいんですよ、きっと。」
なるほど、そうかも知れない。そして、夫君のマサ氏にも、ブツを見てもらったが、
「これねえ、純金だったらすごいんだけどねえ、何も書いてないからねえ・・」
ということで、まあ、こりゃ、まがいもの、どころか、ただの金色のおもちゃなのであろう。でも、試しに質屋には行ってみるか。
いや、しかしそこでは、きっと老店主が、虫眼鏡でもって、じーっと見て、そしてフフフッと口元で笑い、おもむろにこちらに向き直ると、
「お客さん、こりゃ、どうにもならんわ。だまされなすったね。」
とか言うに決まっている。やはり、やめておこう。自分があわれだ。
これは、やはり春のたわむれの形見に、とっておこう。笑うのは俺一人でたくさんだ。おもちゃと決めておきながら、心のどこかで「ひょっとすると・・」と期待する。
これも、春のたわむれ。

さて、今回の文章は、パソコンに向って、でなく、本当にペンで、一気に書いた文章。というのは、現在、マサ氏宅で彼が一所懸命カラオケ制作に精を出している横でヒマを持て余し(何もしないのは、船長だからである)、書き連ねてきたわけである。
ずいぶん、書いたな。
まったく、こんな取るに足りない事件を長々と。これも、春のたわむれと、許したまえ。

さて、書き終えて、横を見る。
マサ池田、相変わらず無言のまま、仕事に集中している。我が教室の生徒は幸せであると思う。彼女ら一人一人のために、彼女らの知らない、この深夜の仕事部屋で、これだけの丹精を込めて、報酬を度外視した労力と、時間とをつぎ込んで、カラオケをつくってくれる人がいるのだから。
この真摯さは、何のためか。
金のためなんかでないのはもちろん、春のたわむれでないことだけは確かである。
生徒達に代り、編曲家マサ池田に感謝。
そして、訪問のたびに、この上なく美味しい手料理で私をもてなしてくれる幸子夫人に、個人的に感謝。

締めは、と・・
「アルゴ号、本日は異状アリ!」




2001年4月11日(水)晴れ

水曜日もレッスンを受け付けるようになって2週目。5日間に、20人以上の生徒をみるのは、かなりハードではあり、その全てを終えて、目まいすら覚える今、なお航海日誌を書く体力があるとは驚きだが、今まさに書かねばならない感興にあるので、書く。気力で。

さて、今日二人の生徒に、自分が言った言葉。
「僕は今、曲は書きたくないんだ。歌手に徹していたい。たぶん、作曲を完全にあきらめた時に、再び全く新しい世界の曲を書き始めるかも知れない。・・・僕は、昔から古いものが好きだった。古いから良い、というのではないよ。ただ、年月と風雪に耐えてきた曲というものに、安心してこの身をあずけて、その音楽のなかで僕は歌手として自由に遊べるのだ。そういう確かなものをそなえた作品を、今は歌いたいのだ。イパネマの娘でも、なんでも、bossa novaの名曲には、そういうものがあるよ。・・・」
そして、別の生徒に
「ボサノヴァは、・・・永遠のものを歌っているのです」

この二つの発言は、前者はレッスン中のむだ話のなかで、私の音楽活動について語っているときに、また後者は、新入生に必ず教えている「ブラジル音楽概観」講義中、bossa novaについて語っているときに、ふと口をついて出た言葉。特に後者については、言ったそばから、私自身が、「ああ、そうだったのか・・」と感心し、納得してしまった。

bossa novaが生まれて、すでに40年以上の歳月が過ぎている。popular musicとしては、確かに古い音楽である。にもかかわらず、なぜ、この音楽は常に新しいのか。その答えとして、私は「harmony、melody、rhythm、words、sound、それらすべての奇蹟的調和」を用意していたのだが、今日のこの、不意のひと言で、その答えは覆った。bossa novaがなぜ新しいか。それは、bossa novaが永遠なるものへの憧れの中で創られていたからであった。音楽はなるほど瞬間の芸術であり、空間と時間というキャンバスに音で描くpaintingだ。自身の消えゆく運命に対する、はかない抵抗だ。いや、だからこそ、というべきか、音楽は永遠を憧憬する。そして、その憧憬の極まったところで、bossa novaは生まれている。言葉が、ではない。言葉も、旋律も、リズムも包含した、音楽の全体、さらにそれをも包み込む「bossa novaの心」そのものが、永遠を憧憬しているのだ。
私は常々、「Joao Gilbertoの芸術のどこを切っても、金太郎飴のように、JoaoGilbertoが出てくる」と言ってきたが、その言い方にならえば、「Joao Gilbertoの芸術のどこを切っても、永遠があらわれる」のだ。永遠と言い切るよりは、やはり「永遠への憧憬」か。とすれば、ここにもっと適切な言葉がある。「永遠へのsaudade(サウダージ)」。("saudade"はポルトガル人およびブラジル人に特有の感情を表す、これら民族の心と文化とを解く鍵となる言葉。他の言語では、近親のスペイン語ですら訳語、類語がないとされる。私は、私なりの解釈で「今、ここにないものへの切ない憧れ」と不完全ながら説明することにしているが、しかしこれについては、またいずれ。)

何も、私は、「永遠」にこだわっているのではない。永遠なるものが至上であるとも思っていない。ただ、なぜbossa novaが、時を超えてかくも美しくありつづけ、また若さを保ち続けているのかの秘密が、今日はっきりわかってしまったので、一気に書き飛ばしているだけである。乱暴な物言いをするなら、「bossa novaはこれから先も、懐メロ=過去の音楽、になることは決してないであろう」。

こう書きながら、私は、永遠の美しさを感じさせる、bossa nova以外の音楽のいくつかを思い浮かべる。その通り、永遠を憧憬する音楽は古今東西、生まれ続けてきた。私が今日発見した真理は、bossa novaという一つの(一つにすぎない)美のsymbolを手がかりに私が刹那とらえた、あらゆる芸術創造の秘密そのものなのかも知れない。つまり偉いのはbossa novaだけではないのであろうということ。でも、「ボサノヴァは、永遠のものを歌っているのです」と軽く言い流して、話題が次に進んでいっても、私の心の中にはその言葉がずっと残り続けて、教えている内容とは別個に、少しキザな言い方になるけれど、心の奥の小さなスクリーンには、若き日のJoao Gilberto、Tom Jobim、Vinicius de Moraes、・・・彼らの遠くを見つめる、真摯な眼差しが映し出されて、消えなかった。
「永遠を見つめる眼」。しかし、それがために、ブラジルでのbossa novaの時代は、以外にも早く終わりを告げることとなる。社会の現実から、あまりにかけはなれてしまったために。その後、bossa novaは音楽産業のメインストリームを離れ、永遠を憧憬する、世界中の"some people"の心の中にすみかを定めた。そして今も生き続けている。私の心の中にも。

「bossa novaは音楽の太極拳である!」
「bossa novaを演奏することは、音楽家たるものの、たしなみである!」
・・・・・
私はこの音楽に対して様々な言い方をしてきたものだ。「永遠への憧憬」もまた、明日になれば、また別の表現に取って代わられるかも知れない。
これは、アルゴ号船長の今日の発見。
書き終わってみれば、船長、目まいどころか、大変元気になっている。
「歌うこと、書くことは、俺を元気にしてくれるんだ!
また会おう、航海日誌で!」




2001年3月31日(土)雪のち晴れ

なんと、春の雪であった。桜満開を向こうにまわして、冬の最後の抵抗か。
しかし、なかなかどうして、桜に負けない、美しい花びらのような雪たちであった。
次から次へと、果てしなく柔らかに天から降ってくる、無限の花びらであった。
決して積もったりしないところも、春の雪らしく粋ではないか。
夜、ふところ手して(嘘。そんな気分で)散歩してみれば、空は澄んで星も出ている。明日は花見日和であろうか。
花見といえば、私は昨日すませてきた。夕刻、自転車に乗って大宮公園へ。実に見事な桜が空を埋めつくすように咲き誇っていた。行く前は、なぜか、桜とビール、という気分だったのだが、あまりに寒いので出店で「熱いお酒を」と言って、ふだんなら絶対飲まないであろうワンカップ(というのか)を買い、ベンチで、花を愛でつつ飲んだ。うまかった。でも、これは昨日の話。

今日はそんな雪の中、体験レッスンを受けに、二人おいでになった。両人とも、入学を希望。嬉しいことである。しかし、これで、なんと生徒33人になってしまった。生徒さんたちへのきめ細やかな配慮を考えれば、そろそろ限界であろうか。私自身の頭と心と体に、よく相談しなくてはいけないなあ。気持ちとしては、是非学びたいと言われれば、断ることなく、みんなに教えてさしあげたいのだが。それに、私自身の音楽活動のための時間とエネルギーは、だいじにしなくてはならないのだから、やはりある程度まで来たら「定員」設定は必要かも知れない。
考えてみれば、この教室を始めようと思い立ったのは、私が自分の音楽を育て、一生続けてゆくための、ひとつの手だてとしてであったのだ。つまり、第一に私自身の創造、演奏活動あり。これは、どんなに教室が成功し、私の宝となっても、揺らぐことの無い、大命題である。ゆめ、取り違えてはならない。ああ、それにしても、CD制作は進まないなあ。教室の発表会が終わるまでは、どうやらしかたなさそうである。元来、私は不器用なのだ。二つのことをいっぺんに、なんて、ほんとは大の苦手なのだ。それをやろうってんだから、俺も変わったもんだぜ。でも、やらなきゃ。やると言ったら、やる。その気になるまで、少々時間がかかるだけさ。
さて、今日3月31日は年度末。そして我がアルゴボサノヴァ教室も、来たる4月5日には開講から2周年を迎えることとなる。早かったなあ。いろいろあったから早い、のか、いろいろあったのに早い、のか定かではないが。1周年のときは、感慨にふける余裕もなく、気付いたら過ぎていた、という感じだったけれど、今回は少しく感慨あり。教室アルゴ号も、後ろを振り返ると、何かの景色が見えるくらいには進んだのであろう。しかしながら、まだ旅の途上にある者として、感慨にふけるのは開講記念日だけにしておくべきか。いや、待てよ、ひょっとすると記念日はひとり祝い酒で泥酔して、日誌は書けないかも知れないぞ。うん、きっとそうなる。では、今日のうちにもう少し書いておくとしよう。元来、やりたいことを我慢しておくのは、これも大の苦手なのだ。今感慨があるのなら、今こそが書くべき時!

私にとってこの教室は、ひとつの世界である。
私が作ったものとしてではもちろんなく、また私と生徒達の総体としてでもなく、それは私と生徒達が意図せず、互いの間に生み出し、共有している、美しい空気のようなものである。
ときどき思うのだ。この教室は奇蹟ではないかと。おおげさのようだが、ほんとにそう思う。だって、こんな田舎町の、貧しい陋屋(ろうおく)に、遠路はるばる生徒達が、次々通ってくるのだから。それもセンスの良い、ボサノヴァ好きの女性達が、である。ありがたい、というより、不思議だ。
私は、この教室を始めてから、あらためてbossa novaの偉大さを知った。先に「美しい空気」と書いたが、多分、私と生徒が教室で向かいあっているとき、互いの間に、目に見えない、静かな生命力と治癒力を秘めた「bossa novaの気」のようなものが、そうだ、ちょうど教室で私が使っているaromaのように、ゆるやかに流れているのに違いない。生徒の中には、私の人徳のせいだなどと言ってくれるひともいるが、いや確かに私はできるかぎり真摯に取り組んではいるけれど、それだけでは、この教室の成功を説明することは難しいよ。もし、生徒が私にそういうものを感じるのなら、それこそ、「bossa novaの気」が私に影響を及ぼして、少しはましな人間にしてくれるからだろうね。きっと生徒達も、その空気に包まれるから、楽しいとか、心地よいとか感じるのだと思う。
ほんとに、貧しい陋屋なんだから。今日来た体験レッスンの人達も、きっと思ったろうなあ。「え?これがボサノヴァ教室?ほんと?」てね。もちろん、私なりに快適なスペースづくりに努力はしているけれど。

つまりね、bossa nova、ありがとう、てことなんですよ。
Muito obrigado, bossa nova.
bossa novaが生徒さん達を連れてきてくれたのですよ。賢く、優しく、個性にあふれ る素敵な生徒さんたちを、です。
そしてbossa novaが私を変えてくれるのですよ。正しきJoao Gilbertoの使いにね。ふだんこんなにも邪道で、「俺はボサノヴァ歌手じゃない!」なんて言っている野心的な人間を、です。
そしてさらにbossa novaが包み、守ってくれるのですよ。私と生徒達、アルゴボサノヴァ教室を、ですよ。殺伐と喧騒、恐れと、怒りと、愚かしさから。私には、そんなふうに思われる。

教室創立2周年。普通なら、生徒様方、ありがとうございます。ひとえに皆様のおかげと存じます。これからもお引き立てのほどを・・と申し述べるべきところであろうが、ここはアルゴ号航海日誌、誰それへのメッセージよりは、船長の独り言が優先されるのである。
ああ、今日も長い独り言になった。
書いているうちに、アルゴ号、2001年度に入ってしまった。
とりあえず、前祝いってことで船長、勝手に「乾杯!」。




2001年3月16日(金)晴れ

本来日誌なるものは、その日の活動すべてが終わってから書くものであろう。しかるに私は今、日の沈まぬうちにこれを書こうとしている。というのは、今日これからすることが余りにありきたりなので、そんなのは書くには及ばない、むしろ「書く元気」のしっかりあるうちに、何でもいいから書いてしまえ、というわけである。
この日誌も、これで5回目を数える。よくやってるじゃないか、臼田。しかし、まあ、どれだけの人が読んでいるものか。実は、この日誌によって最もその生活に影響を受けているのは、他の誰でもない、私自身である。作詞を殆どしなくなった私にとって、自分の言葉をネット上とはいえ、外気にさらすのは貴重なことである。どれだけの人が読んでいるのかなどは、本当を言えばどうでもいい。ただ、外気にさらすことに意味があるのだ。そして、書く前に、また書きながら、何を書くのかについて、しばし悩み、、迷い、考える。これが、だいじなのだ。自分の、貧しい自画像、貧困な思考生活、感情生活、才能等々について思い知ることこそ、歌ってゆく(=創造してゆく)私にとって、だいじなことなのだ。

いきなり、語り始めたね。ここは、日誌だよ、船長殿。
はい、今日は真昼に起きたが、ゆうべ深夜まで生徒用の楽譜を作成していた疲れがとれていない。食事の後、我が教室の清掃をすませてから、自転車に乗り、友人の墓参りへ。
この古い友人Mは、私が中学生のときの同級生である。卒業が迫ったころ、難病にかかり他界した。私とは、無二の親友というのではなかったが、しかし席も近く、気が合って、一緒に映画など見に行ったものである。心の優しい、穏やかな男であった。当時の私は、彼が「死んだ」ということを、実感として理解できなかったので、失う悲しみというものがわからず、葬儀においても、泣き崩れる女生徒達を見て戸惑った記憶がある。しかしあれから21年たった今日、墓前で手を合わせる私が彼に語りかける言葉は、すでにみずからの死が、さほど遠いものではないことを実感している者のそれである。「M、おまえのぶんまで・・ていうのは格好いいけれど、多分それは無理だな。しかし、俺にはまだまだやることがある。まあ、一所懸命やるさ。」

Mの墓参りの日は決まって天気が良く、穏やかだ。ちょうど、春が本格的に冬を追い出しにかかる頃なのだな。自転車に乗って風に吹かれても、さほど寒いとは感じない。
彼の死後、毎年、級友であり親友である数人で墓参りを重ねてきた。さすがに20年もたてば、うっかり忘れていることもある。でも、必ずこの数人のうちの誰かが覚えていて知らせ合う結果となっている。そして、休日の穏やかな日差しの下、旧友そろって墓参りの後は、やはり同級生がやっている近くの蕎麦屋に落ち着き、由無し事を語らい、のんびりとほろ酔いになる。というのが、知らず、ならわしとなっていたのだが、土日に教室を開いている今ではそうもいかない。私は仲間外れのていである。

今日も、ほんとは墓参(以下、ぼさん、と読む)の後、ひとりで蕎麦屋に行きたかった。腹が減っていなかったのでよしたが、しかしなぜ、墓参の後に「蕎麦屋で酒」なのか。
思うに、死者とつきあうには、ゆったりと、ぼんやりとしなくてはいけないからではないか。誰でもそうだと思うが、週日、忙しく働いている間には死のことや、自分の行く末などに思いをはせることはあまり無いだろう。そんなことを考えるのは、何もすることのない無聊(ぶりょう)の休日の午後であり、暮れ方、うたた寝から目覚めた前後不覚の間であり、また酒に酔って虚空を見るともなくぼんやり見ている時であったりする。死はあらゆるスケジュールと出来事と約束の埒外にあるのだから、私達もそいつと仲良くするには、埒外に出なけりゃならんというわけだ。休日の効用。酒の効用。関係あるか、無いか、私はよく、隣で眠っている人の寝顔や寝息に、死と親しいものを感じる。だから、その人が私の隣にいるにもかかわらず、とても遠いところへ行ってしまっているような、さびしい気持ちになることがあるのだが、あれも、眠っている人というのが、ゆったり、ぼんやりして、死者に近づいているからなのだろうか。ちなみに、私の姉は麻酔医だが、全身麻酔というのは、早い話が、人間を死の状態にあえて近づける術なのだそうだ。深すぎる眠りは死、ということだね。

何?昼から酒、の効用はわかったが、なぜ蕎麦屋じゃなきゃだめかって?
うーん、なぜだろう。ひとつには、私の大好物であるからだが、それだけじゃないな。
蕎麦屋は居酒屋と違って空気が澄んでいるからだね、きっと。
墓参に行くと、心も澄むからね。
澄んだ空気の中、澄んだ酒を飲み、澄んだ味のそばを食う。
「富士には月見草」ならぬ(すまん、太宰さん)
「墓参には蕎麦屋がよく似合う」の巻。

しかし、さっきからどうもくしゃみが出るなあ。それに、この目がやけに痒いのはどういうわけだ。風邪にしては悪寒がしない。花粉症?そう言えば、どうもこのところ、同じ症状がときどきあらわれている。歌手が花粉症じゃ仕事にならないではないか。まったく歌手というのは、自己管理が大変だね。小説家や作曲家、まあ演奏家でも楽器奏者ならノドの心配はしなくていいから、仕事の前日でも大酒は飲めるし、風邪ひいてたって無理がきく。ところが歌手はそうはいかないよ。とりわけ、私の声帯は人並み以上に弱いときている。おまけに前回も書いたように、ギタリストでもあるので爪の心配、指先の心配までせにゃならん。
面倒だ。面倒の多い人生だ!
早くも心が少し濁ってきたようである。
この辺でやめよう。
「アルゴ号、本日も異状なし!」





2001年3月9日(金)晴れ

今朝起きると、おや、爪が欠けている。ギターを弾くために最もだいじな右手中指の爪が、こいつ、ひと月前に泥酔してどうかしたときに欠いてから、ようやく伸びて弾きやすくなったというのに、またか。しかも、今日は演奏の仕事があるというのに・・。何事によらず、こんなものであろう。きれいな服、買ったその日に染みをつくる、とかね。しかし、今日は「欠け方」がよかった。うまい具合に斜めに欠けて、音は十分に出るようだ。この間のライブでは、忘れ物。今回は爪、か。演奏家として、自己管理がまだまだ甘いぞ、臼田、と戒めつつ、例によって教室掃除から始まり、休む間もなくライブに備え、ギターの基礎練習。ここ2年ほど、この基礎練習(右手のみの)を怠っていたのだが、いや、もう必要無いとたかをくくっていたのだが、どうもやはり、自分はまだヘタだ、と自覚したので最近再開したのである。さて、時計を見ると、おっと、もう出なくては。というので急いで車を走らせる。すると首都高速は予想をはるかに上回る大渋滞。にっちもさっちも行かず、おおいに焦ったが、不思議だ。毎度のことながら、結局演奏時刻には間に合うのだから。これも、やはり、何事によらず、こんなものであろうか。

今夜演奏した店は、もう2年ほど前から、2ヶ月に一度は必ず出演している洗足池畔のイタリアンレストラン、テラス・ジュレ。ここでの私は「ボサノヴァ&カンツォーネ歌手」ということになっていて(自分で勝手にそうしたのだが)、だいたいブラジル音楽7割、イタリア歌謡3割、のプログラムで毎回歌っている。今日も、店内の素敵な雰囲気と、食事を始めたばかりのお客さんたちの邪魔にならないように、静かにボサノヴァからスタート。しかし、いつもと違うのは、「Agua de beber(おいしい水)」とか「Manha de carnaval(黒いオルフェ)」といった有名な曲は少なめにして、新しく覚えた曲や、今年のCDに入れたい曲などを盛り込んだ、つまり、いわゆる「意欲的な」選曲になっていたこと。今年はあまりライブをやらないので、こういうレストランの仕事であっても、一回一回だいじに、考えながら、試みてゆこうというのである。前々回の日誌に書いたような、「ボサノヴァと自分の関係」もちゃんと考慮しつつ。
しかし、用意はしてたんだが、さすがに「木枯し紋次郎」はできなかったね。あまりに空気にそぐわないんで・・・。「血は流れ、皮は裂ける。痛みは生きているしるしだ!」
この歌詞はやはり時と場所を選ぶよ。CDには絶対入れるけど。

それにしても今夜は、とても良いライブだった。後半、闘う男の「Berimbau」、初めて歌うDjavanのcoolで熱い「Cigano(ジプシー)」、そして、しっとりとカンツォーネの名曲「Come prima」、俺は決して飽きないぞ「Volare!」と続き・・、2年やってきて初めてのことだが、はじめ、あんなにざわついていたお客さんも、すっかり聴き入ってくれて、曲間の静寂はこわいほどだった。私は踊ったりしない。客の方もほとんど見ない。歌って弾いているだけだよ。不思議だね。最後は、これも今日初披露の「Con te partiro(イタリアの声楽家Bocelliが近年世界的にヒットさせた曲。邦題「君と旅立とう」)」。実は、今のところ今年のCDのラストはこの曲で、と思っているのだが、ようやく人前で演奏するところまでこぎ着けた。で、まだあまり良く歌えなかったのだが、皆さん、喜んで下さり、これもあの店では珍しいことなのだが、「アンコール!」が来た。予期せぬアンコールは、本当に嬉しい。いくらでも歌ってあげたくなってしまう。でも、1曲だけ、「O sole mio」をだいじに歌ってさしあげた。
もちろん、発声、ギターの荒さ等、反省点はいくつもある。が、たったひとりでの演奏に関して、かなり自信は得てきたような気がする。以前は、問題点がたくさんありすぎて、ただ「俺はまだまだだ・・」と消沈することが多かったが、今では「これ」と「あれ」を直せばよい、と指摘できるようになっただけ、進歩はしたのだろう。
それと、今日の収穫は、新しい愛器「Jose Yacopi」を初めてライブで使ったこと。ひそかに、奴の「御披露目」であったのだ。プライベートで、また教室でもこの2ヶ月、毎日弾いていたのだけれど、面白いもので、今日初めて、晴れて「俺の頼れる相棒」になった気がした。「戦友」と言ってもいいかも知れない。「これからも頼むぜ、ヤコピー!」。

どうやら船長、今日は調子がいいようである。
この日誌を書き始めると同時に飲み始めたビールが、そろそろ回り始めたか。
え?ひとり酒はやめたんじゃないのかって?
はい、基本的に飲んでません。が、ライブの後は飲むことにしたのです。やはり、ひとりでも、「打ち上げ」はしないと、いけません。次に進めません。だいいち、精神衛生上よろしくない。
しかし「ひとり」は楽しいね。なに、演奏の話ですよ。技術が伴ってくると、こんなに楽しく自由なものかな、と今さらながら驚いたりしている。音の全てを自分一人で出したい俺は、やはり、正真正銘「弾き語りの人」なのかも知れない。

さて明日は、教室と、フルートの小島のり子さんのライブに出演、のダブルヘッダー。
アルコールはほどほどに、しっかり眠って一日の航海の疲れをとるとするか。





2001年3月3日(土)曇り

実は昨夜、ある宴から帰宅後、この航海日誌を書き始めたのだが途中で眠気のために断念。で、何ということの無い今日について書くことになってしまった。
何ということの無い今日・・。ほんとにそうだろうか?
いや、なんという失礼なことを。今日という日に対して!
今回の航海日誌は、淡々と一日を振り返る、正統派日誌にしようではないか。

基本的に、昼近くまでぐっすり眠る人なのだが、なぜか、そうだ昨夜宴でワインをかなり飲んだせいだろう、とんでもない早朝に一度目が覚めた。また入眠し、結局10時にぼんやり目覚め「さあ、もう起きよう」と思うが春眠暁を覚えず(どこが暁だ)また入眠、ほんとに起きたのは11時を回ったころ。
目をこすりながら想起していたのは、以前にどこかで読んだアメリカ・インディアンの話で、それによると、ある探検家(であったか)がふたりのインディアンをガイドに雇って歩いていたが、あるところまで来ると、彼らは急に進むのをやめてしまった。なぜかと問えば「私達は(人間として)一日に進むべき距離をすでに歩いてしまった。だからこれ以上進むのはよくない。」と答えたという。
つまり、私が10時に起きようとして起きられなかったのは、人間として正しい睡眠をとっていなかったからなのだなあ。今朝の私にとっては、11時が正しい起床時間であり、また12時でもいけなかったのだ・・・。
そんなことを思いつつ、ゆっくりと起き上がり、入浴、朝食(正しくは昼食)、歯磨き、と進むうちにこの「にわか」インディアン、いつのまにか先生へと変身してゆく。

今日は、土曜日であるから、ボサノヴァ教室初日。近ごろは土曜日はやけにヒマで、今日も生徒はたった一人。しかし一人でも生徒が来る日は、私臼田の頭と体はすっかり「先生モード」になってしまい、レッスンが終わっても、なんとなく落ち着かない。気分の切り替えというのは難しいね。酒でも飲めば別だが。結局、生徒用の楽譜を書いたりして、しっかり「教室day」にしてしまった。
書いた楽譜はJoao Donatoの「Amazonas(アマゾン川)」。名曲である。I・H嬢のために用意。それから、あの「Mas que nada(マシュ・ケ・ナダ)」を歌いたいという生徒がいるので、それも譜を書く準備として自分で演奏してみた。しかしなんとまあ、私の声に合わない曲だろうか。これまでも人前で歌ったことはないが、これからもないであろうと確信した。声に合う、といえばこの数日の間、頭の中で鳴り続けてやまない曲、Edu Loboの「Ave rara(珍鳥)」、これは私の声に100%合うのだ。優美で起伏に富んだメロディラインといい、ミステリアスな翳りのある詞といい、まるで私のために書かれたかのような曲じゃないか!前回書いた「Ponta de Areia」もそうだったが、まだ曲との出会いってのはあるのだね。嬉しい。さっそく9日にテラス・ジュレで歌ってみるつもり。

こんなふうに、したり、考えたりしているうちにこの貴重な一日も終わり、こうして平和な航海日誌を書いている次第。しかし気がつけば、もう昨日の私はどこにもいない。
さあ、明日は朝から生徒が来る。寝坊したら大変。「インディアンによれば・・」なんて言い訳は許されないからね。
次回日誌は多分テラス・ジュレの演奏の日に。




2001年2月24日(土) 雨

所沢のアドリブという店でのライブを終え、帰宅。ひと風呂浴びて、今ようやく落ち着いたところ。疲れてはいても、こういう日にこそ日誌を書くべきであろう、とノンアルコールビール(!)をやりつつ、ペンをとる。ような気持ちで、キーを打つ。

今日は昼過ぎから二人生徒をみて、少し出発が遅れたので、その後大急ぎで車を走らせ、土曜の渋滞につかまらないように、と祈りつつ、なんとか運良く時間どおりに店に到着。ところが、こんなことは初めてなのだが、肝心の楽譜を家に忘れて来てしまった。暗譜していれば何の問題もないのだが、あいにく初めて歌う曲が多く、詞もうろ覚えときている。さすがに慌てた。結局家からファックスで送ってもらって事無きを得たが、やはりライブの日は余裕を持って行動しないといけないな、と痛感した次第であった。

今夜の共演は、私の高校時代の同級生で現在ジャズ・サックス奏者の岩佐氏と、小野リサのサポートをつとめていたというベーシスト、望月氏の二人。今回のライブは岩佐がバンマス(リーダー)なので、彼の選曲が多く、これがつまり私が初めて歌う曲であったのだ。しかし、自分が歌いたい歌でなく、このように他人が私に歌って欲しい曲というのは、意外な、良い出会いとなることがあって、例えば、もう私のライブではすっかりおなじみの「Berimbau」もそうである。自分の好みだけで選曲していたら、あの曲は一生歌わなかっただろうと思う。
今日の良い出会いは、Milton Nascimentoの「Ponta de Areia」。廃線になった鉄道と、それによってさびれてしまった町の人々と風景を、大らかに、かつ力強く、simpleな旋律で歌ったものだが、bossa novaやsambaとは異なる、山国のひと独特のsaudade(Miltonはブラジルの「海無し」州、Minasの出身)とでもいうものにあふれていて、この私自身も「海」のひとでなく、これはハッキリと「山」のひとなので、歌っていて実にしっくり来た。この曲を演奏し終え、次にJoao GilbertoがCDで歌っている「Palpite Infeliz」というsambaを歌いだしたところで、私はすぐ思った、「うーん、なんかしっくり来ないな・・」。といって演奏をやめたりはしないが、しかしそう思ってしまったのは事実だ。岩佐はMCで私のことを「bossa nova vocalist」と言って紹介してくれたけれども、また面倒な説明が省けるので、自分でもそう言って自己紹介することが、時にないわけではないけれども、本当はそうじゃないのだね、きっと。もちろんbossa novaの研鑽をこの16年積んできた上で、言う言葉だけれど、bossa novaを知れば知るほど、またその演奏技術が上達すればするほど、歌手臼田とbossa novaとの距離を、自身はっきりと感じるようになったのですよ。

では、ボサノヴァ歌手でなければ、何の歌手なのか・・。答え、「ただ、歌手」。bossa novaも歌えば、MPB(ブラジルのpops)も歌う、自分の好きな歌なら、canzoneでも、classicでも、果ては木枯し紋次郎でも山谷ブルースでも、何でも歌っちゃう。ただ、bossa novaは身に付けるのが困難であったがゆえに、時間もかけ、それなりの努力もしてきたので、結果、bossa novaについては他のジャンルに比べて「語れる」「教えられる」ひとになってしまったのだなあ。つまり「他者」について深く学んだわけだね。なるほど。
確かに、ブラジル音楽との出会いは、「圧倒的」だったからなあ・・。あれはまぎれもない、他者、だったんだね。
でも、そろそろ、自分本来の持ち味や、「血」というのか、自分固有のenergyの流れを生かした歌に本腰を入れて着手しなければ、と思っている。ここから20年くらいが歌手としての「盛り」だからね。

ライブからの帰り道、運転しながら、ふと思った。「俺にはどうも、美しく歌うことや、楽しく歌うことよりも、力強く歌うこと、声に『気』を込めることのほうが、だいじなんだな。多分苦悶に満ちた表情で、相手に伝え切れないもどかしさを感じるときこそ、そのもどかしさを声のちからに変えて、歌手としては、より生きているのだな。」
これはBossa Novaとは逆の行き方だろう。「苦悶に満ちた表情」だけはJoaoGilbertoに似ているけれど。また美しく、楽しく歌うことは、もちろん大好きではあるけれど。

さてさて、筆の向くままに、またしても日誌らしからぬ日誌を書いてしまった。先週は「空白の恐さ」で、今週は「俺はBossa Nova歌手じゃない」か。こりゃ、ボサノヴァ教室目当てでこのページを見た人は退散しちまうね。はい、そこのお方、御安心なすって下さい。他者は他者でも、このbossa novaという他者に対しては、私、並々ならぬ愛情と、尊敬と、親しみを感じ、これからも研鑽を怠るなんてことは金輪際ないんですから!



2001年2月16日(金)快晴

風の強く、冷たい一日だった。我がアルゴ号の金曜日は翌日からの教室4日間に備えて、例のごとく掃除に始まる。この船長、同時に船員でもあるので、なかなか忙しい。
掃除が終わると一杯のコーヒー。さて、この日誌を書き始めたはいいが、何を書こう・・。そう言えば小学生の時、「学級日誌」というものを書いた記憶があるが、あれは何を書いたのであったか。忘れた。

先日、テレビで「ペチコート作戦」なるアメリカ映画を見ていたら、主演のケーリー・グラント扮する潜水艦の艦長が、やはり「captain's journal(船長日誌)」をつけていた。
ここで、いきなり話はそれるが、ケーリー・グラントはいいね。彼が出ているというだけで、どんな映画でもいいから見たくなってしまう。F・キャプラによるコメディ「毒薬と老嬢」、それにヒッチコックの「断崖」、この2作は私の永久保存版である(後者についてはJ・フォンテーンの美しさに、より魅かれるが)。「北北西に進路をとれ」も良い。「汚名」もこわかった。
ケーリー・グラント。軽妙洒脱の演技、徹底したelegance、そしてなにより、内面の見えない(たぶん何もない)恐さ。またしても飛ぶが、我らがJoao Gilbertoの表情に、それによく似た「空白(何もない)」を感じる。彼から音楽を取り去ったら、何も残らないのではないか。あの洞穴のような目。ただ、媒体と化したかのような人間。Caetanoにもシャーマン的なところがあるけれど、空白の恐さは感じられない。あくまでも「的」であって、そのものではない。むしろ、豊かな内面が自然に溢れ出ている感じ。
では、そのように空白のケーリー・グラントの演技が空虚かと言えば、さにあらず。彼の登場によって、画面はこの上なく官能的かつ美味なものとなる。ちょうどJoaoGilbertoの声とギターが、一瞬にして場の空気を変えてしまうように。いや、だいじなのは演技でも歌唱でもなく、肉体そのもの、声そのものがたたえる官能性であり、知性であるのかも知れない。
では、俺の声はどうなのか・・・。
なんてことは考えず、今年はCD制作の計画を始めたのであったが。

確かに、俺の声はどうなのか、それは他人が判断することだ。でも、今回のCD、殆ど全曲、カヴァー、つまり他人の作品を歌おうと思っているのだが、自分の「内面世界」とか、「伝えたいこと」とか、「だいじなこと」とか、そういう、鬱陶しい(と今は思っている)ことから自分の声を切り離して、自由にしてあげて、つまりケーリー・グラント化させて、声そのものの表現、声の顔、声の心、声の肉体、声の言葉(詞でなく)、で勝負したい、とは思っていたのかもね。今、初めてわかった。
ううむ、航海日誌、あなどれない。空白を語っているうちに、自分の内面を発見してしまった。ということで、また次回。



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