アルゴ号航海日誌2007~2008~captain's journal
(新しいものが上になります)





2008年8月20日(水)

11日のCD発表のショーの翌日に日誌を書きたかったのだが、続いて予定されていたサンパウロのinterior(内陸地方)でのショーへの準備と旅で、まったく落ち着いた時間がないまま一週間がたってしまった。そんなわけで、日誌というには古いが、まだ新鮮に蘇るいくつかのシーンを思い出しながら、つづってみようと思う。

前の週の木曜にようやくリオに届いた僕のCD「トロバドール」発表のショーは、11日、リオのレブロン地区、Armazem Digitalで行われた。CDのブックレットにも美しい文章を寄せてくれたBip-BipのAlfredoアルフレード店長が、舞台で開演のあいさつ。ありがたいことだ。
メンバーは、フルートにAna Carolina、ハーモニカにOtavio Castro、パーカッションにBerbel、Paulinha、Alpheoの3人、ヴォーカルにPatriciaとLuiza。僕以外に総勢7人(すべてCD録音の参加者)が、入れ替わり立ち替わりでのショーとなった。サンパウロのピアニストWanderleyは、前日の電話では、Roberto CarlosとCaetano Velosoのジョイント・ショーの、リオでのリハーサルの後、キーボードが手配できればかけつけると言ってくれたのだが、結局リハーサルが深夜に及んだようで、参加できず。残念。しかし実際のところ、舞台がさほど広くないのでキーボードの載るスペースはなかったのだが。また、渋いノドを聴かせてくれるはずだったバックヴォーカルのDidiは風邪でダウン、カヴァキーニョのDanielも弁護士の仕事で急用ができて断念。しかし、7人もの応援があって、寂しい気はしなかった。
演奏は、みなよくやってくれた。思えばCDの録音は僕の狭い部屋で、それぞれの演奏家を別々に呼んで録音して、最後に機械の中でミックスしたのだから、この舞台の上で、ようやくCDの中での共演者どうしが、「実際に」共演したことになる。一番それに興奮していたのはCDをプロデュースした僕かもしれない。

ショーは最後“Berimbau/Consolacao”のメドレーで盛り上がって終了。アンコールの求めに応じて舞台に戻ると、客席から“Beatriz!”の声。もう本編で歌った曲だったので「え、またBeatriz?」と僕が言うと、その声の主が「だって美しいもの!」と。嬉しいじゃないですか。よし、やりましょう、前より美しく!そのBeatrizの後、アンコール用に予定していた2曲を演奏してライブ終了。
こんなにメンバーが入れ替わり立ち変わりのショー(僕の今回のCDは曲ごとに参加者や楽器の組み合わせが異なるので)は、5年前のアルゴ・ボサノヴァ教室発表会以来なので自分の演奏より、進行係のほうに頭が行って、どうだったかな、僕の演奏のできは、さほどよくなかったのでは、と思うのだが、後で嬉しい感想も聞けて、ほっとした。
そしてこの日も、助っ人のプロデューサーWalterの働きは素晴らしかった。僕ひとりでは、きっと当日てんてこまいになると予想したので、はるばるサンパウロから来ることにしたそうである。バスで6時間かけて、である。店側とのCD販売に関する交渉や、各ミュージシャンへの配慮、ショー開始後も店外に流れていたBGMへの苦情、さらに写真家でもあるからショーの写真撮影まで、よくまあノーギャラでここまでやってくれたものだ。惜しみない友情に感謝。
ショーの後、聴きにきてくださったOtavio氏(ジョアン・ジルベルトのマネージャー)と、Walterとともに、気持ちよくビールを飲みながら雑談。Otavio氏もBeatrizを絶賛してくれた。僕の歌うBeatrizは「世界一のBeatriz」、だそうだ。ありがたい言葉だ。
それと、大笑いしたのが、Otavio氏が「おい、ミチナーリ、ジョアンがニューヨークのカーネギーホールの出口でおまえを抱擁したそうじゃないか!」と楽しそうに言うので、またなにか冗談を言ってるのかと思ったらそうでなく、なんでもジョアンはその出口で待っていた僕(とジョアンが勘違いした、某日本人)に向かって「ミチナーリ、おまえは世界でもっとも偉大な歌手だ(o maior cantor do mundo)!」と言って抱きしめたというのだ。
「僕は一度もニューヨークに行ったことないですよ」と僕が言うと、「へえ、そうか」とOtavio氏。「いや、僕のスピリットがカーネギーホールまで行ったんですかね」と言うと、「うむ、そうかも知れん」とOtavio氏。
いずれにせよ、たいへん光栄な話である。いや、もったいない話である。そして、その間違って抱きしめられた日本人ファンは、たいへんな幸せ者である。
Otavio氏には、ジョアンへ進呈するべくCDを託した。「私の偉大な師、ジョアン・ジルベルトへ、深い賞賛と尊敬を込めて」とポルトガル語で献辞を記し、僕の漢字のサインとともに。

CD発表ショーの余韻も冷めやらぬ中、翌々日には、サンパウロ州の地方都市Presidente Prudente における、SESC主催のショーに向け出発。まずはサンパウロ市へバスで移動。今度はCDの発表でなく、ボサノヴァ50周年記念のショーだ。初共演のフルーティストRichardと、打楽器奏者Lucimaraとリハーサルの後、プロデューサーWalterとともに夜行バスでさらに8時間の旅。
サンパウロと言っても、ほとんどマトグロッソ州との境に近い場所で、こんな内陸でボサノヴァねえ、と内心いぶかしんでいたのだが、翌日の劇場でのショーにはボサノヴァがほんとに好きな人々が集まって、まさに静聴していただいた。ほんとは、あまりに「静聴」だったので、楽しんでないのかと不安になったのだが、最後の曲を歌い終えた瞬間、多くの人がスタンディングで拍手、「もう一曲!」の声も飛び、「ああ、楽しんでくれたのだ!」と、ほんとに心から嬉しくなった。「海を感じたわ!」という女性の声も聞かれ、リオからはるばるこの内陸地方まで旅して来た甲斐があった、と思った。
いいことしたな、と素直に思う。ボサノヴァが生まれたその土地の太陽、海、風、そんなものを僕が、遠い別の土地へ運び、人々に供して、喜んでもらえるなんて、と。僕は日本人だが、リオから派遣された文化使節みたいな気がした。光栄な仕事だ。
ショーの翌日、今度は昼間の復路だったが、8時間、延々とfazenda(農牧業の平原)の中、まっすぐの一本道である。ああ、これがブラジルの広さだ、としみじみ思った。ボサノヴァの「海」をみずからのふところに秘め、こんな乾いた平原の一本道を旅するのは不思議な面白さだった。

サンパウロ市に戻って一泊して体を休め、さらにまたバスで6時間揺られて、ここリオに戻って来た。やはり、我が家は落ち着く。リオのアパートが「我が家」だなんて、2年前には思えなかったのになあ、おれもずいぶんこの街に慣れたものだ、と思う。 その住み慣れたリオにも、あと3ヶ月足らずで別れを告げなくてはならない。遠くない将来、再びここに帰ってくるのはわかっているが、しかし寂しい。
この寂しさは5年前に成田を発つときに感じた日本との別れの感覚とはまったく異なるものだ。あのときの寂しさは「心細い寂しさ」だった。自分の人生と音楽の行き詰まりの中、まるで日本からはじき出されるようなかたちで「しかたなく」異国へ旅立った感があった。それに、ブラジルで待ち受ける未知の日々への不安もあった。 その異国ブラジルが今ではなんと、愛すべき友人がいっぱいの、第二の故郷となってしまった。一方、帰らんとする第一の故郷日本には懐かしい家族、友人、自然が待っている。
というわけで僕は近頃、自分の体がまっ二つに、日本とブラジルとの間で引き裂かれるような気持ちがするのだ。
どうしたら、この引き裂かれる感覚を解決できるのか、まだわからない。が、わからないまま帰国するつもりはない。この先、どんな航路を採るか、アルゴ号船長の決断の時は迫っている。



2008年7月25日(金)

それにしても忙しい2日間であった。日本であくせく働いている人から見たら、なんということもない忙しさかも知れないが、日々あまり約束に縛られない生活をしてきた僕にはこたえた。
一昨日は、日本とボサノヴァの関係を探るブラジル人取材班によるドキュメンタリーへの出演で、リオ植物園に隣接した美しい建物に連れて行かれての撮影であった。僕にとっては仕事ではないのだけれど、その映像が日伯両国の見知らぬ公衆の目にふれると思えば、なにやら緊張する。間違ったポルトガル語を連発するのがわかってるから、気が重い。おまけに、インタビュアーの他、撮影、照明、音声など5、6人にがっちり囲まれての取材だ。言いたいことも、これじゃあ自然に出てこない。ポルトガル語でボサノヴァと日本文化の関わりを語っていて、いきなり「古池や、かわずとびこむ水の音」なんて俳句を紹介したら、今度は「とびこむ」でうまくろれつが回らない始末。日本語もダメか。さらにボサノヴァ3曲の演奏も実演で収録されたが、いやはや、これも大変であった。一曲を通して間違いを許されない演奏ってのは、きついものだ。

インタビューの後も、屋上のベランダで、遠景を眺める振りをしたり、感慨深げに歩いたり、と言われた通りに撮影に協力し、ああ、ようやく終わった、と息つく間もなく、タクシーでイパネマの「ボサノヴァ会議」会場へ。
この会議は、ボサノヴァ専門店“Toca do Vinicius”主催の、4日間に渡るボサノヴァ50周年記念イベントで、Ruy Castro他、ボサノヴァ関連の著名な評論家などの講演あり、Pery Ribeiroなどの有名歌手のショーもあり、という、かなり大々的な、そしてボサノヴァにとって始めての催しである。 その歴史的イベントのオープニングで1曲歌ってみないかと“Toca”のCarlos Alberto店長に招待されたのだった。実はその招待が、その日の昼間、まさにドキュメンタリーの撮影地に向かおうとする時であり、なんでまた、こんなぎりぎり(本番6時間前)に、そんなだいじなことを伝えてくるものだか、まあしかしリオだからしようがない、という理屈でいつも納得してしまうのだが、とにかくありがたく引き受けた。
さて、サウンドチェックの時間に間に合わせるため大急ぎでタクシーを走らせて会場に着くと、イパネマのその一帯が停電状態で真っ暗。僕の歌の後にショーを行う偉大なボサノヴァ・コーラスグループOs Cariocasオス・カリオカスも、暗闇の中で待っていた。
そんな暗闇の中で自己紹介するのも変だから、じっとして、待つこと2時間。お客さんたちも続々闇の中に到着し始めた頃、とうとうCarlos Alberto店長がオープニングイベントの一日延期を発表。なんだか逆にほっとしながら、すぐさま電気の通っているお隣コパカバーナへ。

今日水曜はBip-Bipのroda de bossa(ボサノヴァの輪)の5周年記念日なのだ。責任者代行としては欠席は許されない。そして、ここにも昼間の撮影隊がすでに到着して準備を始めていた。Bipでの僕の映像を撮りたいというわけだ。さらに、我が国のNHKの取材班もボサノヴァ50周年記念の取材でBipに到着。roda開始まで、スタッフとともに、つかの間の夕食をとる。記者のHさんはじめ、皆気持ちのよい人たちである。
そして5周年記念roda開始。いや、実にハードなrodaだった。2つの撮影隊だけでなく、お客さんもいつになく多くて、その話し声と、ブラジル撮影隊の大がかりなライティングの熱と光線と闘いながら、1時間も演奏したら、もうくらくらだ。そこへエレキベースが加わって、盲目の「叩き屋」パンデイリストMauroも入って、「弾きまくり屋」Aryも来てしまって、もう僕はこの辺で降りさせていただきます、とroda(輪)の外へ脱出。
rodaは大混乱だったが、せめてNHK撮影隊に良い収穫があったら良いのだが。彼らのカメラの前で、近頃病気がちなBip店長のAlfredinhoが得意そうに吠えていた(喋っていた)のが、微笑ましかった。客達には「静かにしてくれ!音楽家の演奏を尊重してくれ!」と訴えていたが、賑やかなこの5周年はきっと、彼の良薬になったのではないだろうか。
が、とにかく僕は大疲労で帰宅。

翌日木曜は、昼間にNHK取材班が我が家に来ての収録。その後、急いで「ボサノヴァ会議」会場へ。停電していない。つまり僕はこれからここで歌うのだ。Os Cariocasのサウンドチェックを見ながら、自分の番を待つ。僕はふだんなら、舞台では皆と同じようにエレ・アコ(電気的クラシックギター?)を使うのだが、この日はジョアン・ジルベルトに敬意を表して、そんな小賢しい細工のない、ふつうのクラシック・ギターを持参した。50年前は、舞台でもみんなこのふつうのギターの音を、マイクでとらえていたのだ。ジョアンは今だって、そうだ。50周年イベントのしょっぱなに、普通のギターで、ジョアンのスタイルで、日本語の真正ボサノヴァを演奏する。これが僕なりのジョアンおよび50周年へのhomenagem(敬意)の表し方だと思った。
出番を待つまでの間、楽屋でOs Cariocasの面々と雑談に興じる。みんな物腰の柔らかい、いい人たちだ。ただ、70歳を越えるであろう、オリジナル・メンバーのSeverino氏だけが他の3人からぽつんと離れ、静かにしているのが印象的だった。
さて本番、お客さんは満員御礼、500人ほどか。司会のCarlos Alberto店長の指示通りに、暗闇の舞台へ進み、椅子に座り照明がつくのを待つが、ありゃ、いつまで待っても明るくならないぞ。不思議に思っていると「Michinari, vai, vai(go!go!)」という店長の声。え、なに、真っ暗のまま演奏するの?しようがない、始めましたよ。手もとがまったく見えない。コードの抑え違いの恐怖と闘いながら、“Song for Lila”一番を歌い終え、さあ転調して二番だ、ここで照明さん、かーっと来てくださいよ、と期待したが来ず。結局暗闇の中で、演奏しきった。拍手、その瞬間ぱっとライトがつき、店長が僕を紹介した。つまり演出だったのだ。先に言ってくださいよ、店長。いつも遅いんだよなあ、連絡が。ミスがなかっただけ、まだよかった。ほっ。Os Cariocasとバトンタッチ。
しかし、暗闇で映像を撮らなければならなかったNHK取材班には気の毒であった。彼らは、この映像にもっとも期待していたのだから。会場の外で会ったH記者は、しかし思いのほか快活だったので安心させられた。それどころか「すごいことですよ!日本人のあなたが、このリオ・デ・ジャネイロのだいじなイベントで第一番目の演奏者として選ばれたんですよ!」と、まるで、よく事態がわかっていない者に教え諭すかのような、はきはきした口調のうちに、演奏した僕自身より、僕のイベントへの出演を喜んでくれる気持ちが見えて、とても嬉しい気がした。
Os Cariocasのショーが終わり、聴衆も会場を去ったころ、舞台で最後のインタビュー。ここでも、H記者の高揚し、かつはきはきとした問いにつられて、僕のほうも知らず、はきはきと答えるうち、思わず、僕はいいことを口にしたような気がする。
「ジョアン・ジルベルトは一度も、自分の音楽をボサノヴァと呼んだことがないと聞きます。僕も、ボサノヴァを追求しながら、いつか僕自身の音楽を作り上げたい。そして、それこそがボサノヴァなのかも知れません。」
言葉は少し異なるだろうが、だいたいそのような意味のことを言ったと思う。
ジョアンは自分の音楽を、自分から切り離したボサノヴァという対象物として見ずに、「これは俺そのものだ」と思っているのだろう。つまりここで僕が言いたかったのは、ボサノヴァとは音楽様式でなく「俺そのもの」を発見しようとする精神と努力なのかも知れない、ということだろう。また発見だ。H記者、ありがとう。そして、スタッフの皆さん、お疲れさま。ブラジル隊の皆さんもお疲れさま。Carlos Alberto店長、ボサノヴァ会議、4日間が無事成功のうちに終わりますよう。
いやあ、しかし忙しいのは大変だ、の巻でした。



2008年7月18日(金)

昨日、歌手Tito Madiチト・マジ氏のお宅を久々に訪れた。チト氏は、現在79歳。50年代、60年代のコパカバーナが最も華やかだった時代の夜を代表する偉大な歌手である。作曲、歌唱両面で、Lucio AlvesやDick Farneyなどと並んでボサノヴァの先駆者(プレ・ボサノヴァ)の一人とも言われる。僕は、日本にいる頃から、しっとりとした情感で歌うチト氏のファンであり、特に彼のつくった名曲「Chove la foraショヴィ・ラ・フォーラ」は好きで、今回の僕のCDにも入っている。
2年ほど前にコパカバーナのお宅を訪問した際に、「超」緊張しながら、「Chove la fora」の他、「Cansei de ilusoes」、「Gauchinha bem querer」,「 Balanco zona sul」など、彼の曲を、作曲者の目の前で演奏披露したものだ。チト氏は、たいへん心優しい紳士で、その晩、僕ひとりのために、未発表曲を次から次へと、キーボードで弾き語りしてくれた。 奥様は7年前に亡くなられたとのことで、犬とふたりきりの寂しく静かな生活ぶりのようだった。

その後、もう一度訪ね、また彼のショーにも何度か足を運んだが、僕は苦難のCD制作に入り、自然、ご無沙汰することになった。ああ、早く完成させて、できあがった「Chove la fora」をお聴かせしなきゃ、と思いながらも、制作が遅れに遅れてゆくうち、今年始め、チト氏が脳の病気で倒れたことを人づてに知った。病の重さもわからなかったので、どうも電話する気にもならず、それから半年がたってしまったが、僕のCDの音もようやく完成し、なぜだかチト氏は元気でいるような気がして、ふと電話する気になった。果たして、彼はあののんびりとした優しい声で「アーロー。おおミチナーリ、おまえ消えちまったじゃないか」と応じてくれた。よかった、元気だ。
病の後遺症で、歩くことができないということだったが、声には力があり、ピアニストを招いて歌の練習もしているようであった。僕のCDの音が完成したと告げると、「それを持ってうちに来なさい」という。
そして昨日、チト氏を訪問。
かなり痩せて、脚なぞは棒のようだったが、お手伝いのおばさん家族、チトの息子や娘たちが、だいじに面倒をみているようで、顔色よく、食欲も旺盛。歌はまだ、本調子に行かないとぼやいていたが、未完成の新CDの残り4曲を録音するのだと、歌手としての再起に向け、気力は十分と見た。79 歳で病に倒れながら、舞台へ「再起」を目指す。すごいもんだ。僕の父も82歳で現役の医師。これもすごい。ジョアン・ジルベルトも76歳で世界ツアーをする現役。みんなすごいもんだ。僕も一生現役、を目指したい。

ジョアンと言えば、実は、このチト氏、おそらくこの世界でジョアンをもっとも嫌っている人物なのである。というのも、ジョアンが「chega de saudade」で成功をおさめる以前の無名貧乏時代のこと、すでに歌手として名を成していたチトは、彼によると「5日間だけ」ということで、ジョアンに宿として自宅を提供したそうだが、結局「5ヶ月」居座ったあげく、金銭的にも迷惑をかけ、チト氏曰く「一度も感謝の情を示したことがない恥知らず者」だそうで、あげくの果てに、これはジョアンの成功の後の事件だが、ある音楽賞授賞式の楽屋で、ジョアンはチト氏の頭部をギターで殴り大出血させ、裁判沙汰にまで発展しているのだ。チトは「まだこの頭に傷跡があるんだ」とぼやいていた。静かな語り口の中にも、「あいつだけは絶対に許さん」というチトの根強い怒りを、僕は感じたものだ。
前回にも書いた、ジョアンの長年のマネージャー、オターヴィオ氏は、実はチトのマネージャーも務めたことがあるので、ある時その一件について尋ねたところ、「うむ、実はあの頃のジョアンはボサノヴァの奏法の発明直後の興奮した精神状態にあってね、誰でもいいから殴りたかった、と思うのだよ、・・しかし、なぜチトが標的になったか・・」と語ってくれた。ジョアンの事情がいかなるものであれ、チト氏としてみれば、とにかく、こんな言語道断なヤツはいないわけである。チト氏は、精神のバランスのとれた人格者である。と同時に偉大な芸術家であるが、偉大な芸術のために他人を犠牲にするという行き方には、とうてい理解を示す人ではない。

実は、一昨日のGLOBOグローボ紙(ブラジルを代表する新聞の一つ)の文化面、1ページいっぱいにチト氏の写真と、彼に関する記事が載ったのである。ボサノヴァの先駆者と言われながら、あえて、ボサノヴァのグループから距離を置いて来たことのいきさつや、ジョアンとの問題などが書かれていた。当然、ギター殴打事件のことにも触れている。
僕としては、すでに前回書いたようにジョアンは、自分をここまで導いて来た「遠く輝く星」であるから、尊敬するチト氏がジョアンを嫌っているという事実については、つらい思いを禁じ得ない。
昨日僕のCDをお聴かせした際も、チトは僕のギターを褒めながら、「うまいぞ。ジョアンより、うまいぞ」と笑わずにおっしゃる。冗談の中にすら、ジョアンへの嫌悪がある。

僕のCDに関しては、ふたりで全部通して聴いて、そこへチトの息子さんRicardoヒカルドも現れ、また全部通して聴いて、ご両人とも気に入ってくださった。僕の歌った「Chove la fora」もどうやら「合格」したようだ。ああ、時間がかかったなあ、チトにお聴かせするまで。「体調が良ければ、おまえのショーに行くぞ」とおっしゃってくれた。チト氏が来てくれたら、ほんとに嬉しいことだ。ちなみに、僕のショーが行われるビルには、ジョアンが住んでいたのだ。近所へ引っ越したそうだが。ニアミス、だな。
偉大なチトと、彼がもっとも嫌う、偉大なジョアン、その双方に、僕は心からの尊敬を込めて、CDを進呈するつもりだ。

そろそろおいとましようとすると、「なんだ、おまえ、おれたちと一緒に晩ご飯食べないのか?そうか、帰るか。でも消えるなよ。また来いよ」と、ほんとに心の温かい人だ。ありがとう、チト翁。 あなたには、まだまだ舞台で歌ってほしい。これが歌手というものだ、と僕らにまだまだ示し続けてほしい。日本には百歳過ぎても歌い続けた岡本文弥という人もいたんだ。 頑張ってくださいよ、チト!



2008年7月8日(火)

実に3ヶ月ぶりの日誌。「月誌」どころか「季誌」だな、もう。もっと気楽にささっと書けばいいのだろうけど、そういうことができない質(たち)なのでしかたがない。
先週金曜に、リオ市内TijucaチジュッカのSESC(セスキと読む。公共の厚生文化施設)において、約一年ぶりとなるライブをまず成功のうちに終わらせてほっとしているところ。レパートリーは新CDとほぼ重なるが、日系移民百周年記念イベントの一部なので、「椰子の実」の他、私の日本語ボサノヴァ「Song for Lila」もきちんとポルトガル語訳を朗読の後演奏した。ちゃんとした舞台で演奏するのが久々だったせいもあるが、さすがに緊張した。おまけに、今回は思い切って、譜面台(歌詞用)を置かずにやったので、歌詞ど忘れの恐怖とも戦いながら、なかなかハードな一時間だった。しかし、なにせ2年間近く、同じCDレパートリーだけ特訓していたのだから、忘れるのはかなり困難だ。「あ、次の歌詞、なんだっけ」と慌てても、勝手に口から歌が流れている。ギターも然り。何も考えずとも指が勝手に動いてくれる。余計なことは何も考えず、歌の風景に住んで歌えば、間違いはないのだと悟った。サポートメンバーのフルーティストCarolカロウと打楽器奏者Berbelベルベルもよくやってくれた。このトリオで9月、サンパウロでのCD発表ライブを行ういい準備にもなった。

CDといえば、前回日誌ではちょうどサンパウロのスタジオでミキシング真っ最中のシーンだったが、あのミキシングは結局まる1ヶ月かけて終わり、その後、音源は東京渋谷へ、13年前の初アルバム「風」でも作業していただいた、名マスタリング・エンジニア、滝瀬さんのもとに送られ、ようやく6月前半に音が完成したのであった。素晴らしい音になったと思う。しかし、音だけでは製品にならないのであって、CDジャケットのデザイン作成や、印刷校正での色の変更など、日本のCD製作会社との間で面倒な作業がいっぱいあったため、実はまだ最終的な印刷、プレス作業には入っていない有り様。今週末に日本から届くジャケット校正見本で僕がOKを出したら即、生産開始である。いや、OKを出さないといけない状況ではある。なにせ、来月11日にリオのレブロン(イパネマのお隣)でCDの出演者を招いての発表ライブが、すでに予約されているのだ。もう再校正の時間はない。ああ、たのむぜ、印刷屋さん、て感じだ。見本はどのあたりだろう。空の上か。待つしかない。

レブロンでの発表ライブには、サンパウロ在住のピアニストWanderleyヴァンデルレイは出演できないなあ、と残念に思っていたのだが、先ほど彼に電話したら、なんと8月前半はRoberto Carlosロベルト・カルロスとCaetanoカエターノのボサノヴァ50周年記念ジョイントライブのリハーサルでリオに滞在するから、僕の発表ライブに出られそうとのことだった。素晴らしい。出演者全員参加だ。
ヴァンデルレイを僕に紹介してくれたOtavioオターヴィオ(ジョアン・ジルベルトの47年に渡るマネージャー)も招待しよう。オターヴィオは、僕のCDのブックレットに推薦文を寄せてくれたのだが、その際、驚くべきことに「ジョアンのうちで、君のCDを彼と一緒に、二回まるまる聴いたよ。ジョアンが君に『おめでとう』を送ったよ。彼は気に入ってたよ」と言ったのだ。嬉しくてほとんど泣いた。僕は「(嬉しくて)死んじゃうよ。もうCDを発表する必要はなくなったよ」と冗談のつもりで言ったのだが、なかばは冗談でなかった気がする。僕はこの23年、彼の芸術を常に遠く輝く星として尊敬しながら歩いてきたのだから。その本人が僕の仕事を聴いてくれた。気に入ってくれなくてもいいのだ。聴いてくれたということだけで、もういい。
また、このブックレットには、Bip-Bipの店長Alfredoアルフレードも心のこもった素晴らしい文章を寄せてくれた。ありがたいことだ。ぜひとも、このCDは成功させなければいけないな。ブラジルでも、そして日本でも。

帰国まであと数ヶ月。あんなに懐かしかった日本だが、今懐かしいのはむしろブラジルだ。この切ない懐かしさこそ、“saudade”サウダージという感覚。ブラジルにいながらにして、すでにブラジルにそれを感じている。5年近く住めば、あと数ヶ月後に迫った帰国は、もうすぐそこにある未来である。帰国前、そして帰国後、いったい僕は、どういうふうにこのsaudadeに対処するのだろうか。しかし来月11日のCD発表から帰国までの間には、帰国後の僕と、ブラジルとの関係を左右するような、かなり密度の濃い動きが自分の内外に起こると予想される。
とにかく、今肝腎なのはアルバム「TROVADORトロバドール」を美しく完成させることだ。
「印刷屋さん、CDプレス屋さん、頼みますよ!!」
こう祈るしかないな。



2008年4月3日(木)

まる一年かかったニューアルバム「Trovador トロバドール(ポルトガル語で『吟遊詩人』の意)」の全録音と編集を終え、いよいよ仕事場は、スタジオ・アルゴ(僕の寝室)の外へ。リオからバスで6時間、ここサンパウロでミックス作業を始めて3日がたったところである。作業場は"Cachueraカシュエラ"という非営利文化団体のスタジオ。半年前にWanderleyのピアノ録音("Reza"と"Bonita"の2曲)もここで行ったのであった。その際、エンジニアの日系青年Kakaカカーの仕事ぶりが見事だったのと、スタジオのディレクターShen Ribeiroシェン・ヒベイロ氏(名フルート奏者で、日本で10年以上仕事をしていた人。尺八の名手でもある)のすすめもあって、当初は自分自身でやろうとしていたミックスを、このスタジオで行うことに決めたのであった。長い長い録音編集作業で、もう機械いじりにつかれてしまった、というのもある。もうたくさん!という限界まで働いたと思う。大の機械音痴の僕が、まあここまでよくやったものだ。ここから先はプロにお任せしよう、と気持ちよく決断できた。

先月31日から始めて、昨日まで3日間、全14曲中5曲のミックスを終えたところである。(註:ミックスって何だ、という方へ。通常、ポピュラー音楽の録音は、たとえ同時に録ったとしても歌や各楽器を、互いに混ざらないように別々に記録して、最後の最後に音響のバランスを整えて混ぜ合わせる。聴く人が自然に、目の前に演奏現場を想像できるように混ぜ合わせるのはたいへん難しいことである。)
そして今日は休日。考えてみれば、先月は録音編集の追い込みで、前回日誌を書いた日以降は一日も休んでいなかった気がする。ほんとに、疲労がたまっている。疲労していても、完成までは気が抜けないから、のんびり朝寝しようと思っても目が覚めてしまう。ここ数日は目の下にくまができている有り様。しかし、あと2週間だ。くまがあったって構うもんか。頑張ろう。

スタジオのエンジニアKaka青年の仕事ぶりは、期待を裏切っていない。日系人ながら、日本語も話さず、日本食も食べないKakaだが、細部にこだわるきちんとした仕事ぶりは、やはり日本人の血のなせる技だろうか。実は、スタジオを選ぶにあたって、まず土地を選ぶことがだいじだと思っていた。リオのスタジオで3年前にデモCDを作った際、カリオカのいい加減(悪い意味で)な仕事ぶりにはほとほと嫌気がさして、音楽家はリオ、だが職人はサンパウロかな、と考えていたのだ。比較的きちんとした仕事をする人の多いサンパウロで、日本に長くいたことのあるディレクターのスタジオ、さらに日系人エンジニア、とくれば間違いはないだろうと踏んだわけだ。すでに書いたように、期待通りの仕事をしてくれている。

思えば一年がかりの、いや、構想と準備開始から数えれば二年がかりの、このアルバム制作の最後の2週間となるわけだが、ここまで僕が丹精込めて作り上げて来たものを活かすも殺すも、このミックスとマスタリング(これは各曲でなく、CD全体の音の仕上げ作業。この作業を経て、音はCD盤プレス工場へと送られる)の良し悪しにかかっていると言ってもいいのだ。まだまだ気は抜けない。これから先、難しいバランス調整を要する曲が続々登場してくる。厳しい耳と音楽観を持つKakaと、これまでの3日間同様、意見をぶつけ合いながら、妥協せず、より良い結果を目指してゆこう。いい方向に進んでいるのは間違いないのだ。

ブラジル音楽を始めてもう20年以上になるというのに、今までブラジル音楽によるアルバムをおおやけに発表したことがなかったというのは、自分でも不思議なくらいだ。10年以上前に自作楽曲による「風」を発表してはいるが、今回のアルバムは、43歳にしてブラジル音楽の演奏家として、あらためて「再デビュー」盤、みたいなものになるのかも知れないな。文学でも音楽でも、処女作にはその人のそれまでの人生すべてが込められる、と言われたりする。そんなおおげさなことは毛頭考えていないが、前作「風」同様、自分の人生の記念碑的な作品になるだろうことは確かだと思う。またこのアルバムの純自家製的な成り立ちだけ考えても、僕の人生において、後にも先にもない、ユニークな作品だと思う。
買った人にどんな文句を言われても、アルバムの徹頭徹尾、その全責任は自分にあるのだから、気持ちは楽だろうな。晴れ晴れした気持ちで「これが僕の今のところの精一杯の仕事です」と言えるものになるよう、あと、2週間、頑張るのだ。
もちろん、買ってくれる人には文句を言われるよりは喜んでほしい。喜んでもらうためには、まず自分が喜ばないとね。これからもKakaが一曲一曲、完成させるたびに、僕が心から"Otimoオーチモ(最高)!!”、”Maravilhaマラヴィーリャ(素晴らしい)!!"と叫び続け、それにKakaが無言でニコッと応じてゆけば、間違いなくいいものになるはずだ。
「アルゴ号、速度を保ちつつ、注意を怠らず、前進!」と、今回は冗談でなく、まさに船長の気持ちで号令したいところである。



2008年2月28日(木)

ようやく日誌を書く気分になった。ぽっかり空いた時間。
急いで仕事をする必要がなく、なおかつ物を書く気力が十分ある、そういう「ぽっかり」空いた時間というのは、なかなかないものである。本日はサンパウロに一週間の滞在の後、リオに戻って来た、その翌日。仕事生活に戻る前のぽっかり空いた一日である。

昨夜、バスで6時間揺られた後、すぐさまBipBipのホーダ「ボサノヴァの輪」で演奏。もはや超疲労状態。ホーダを終えて、さあ帰って眠れると思いきや、saideiraサイデイラ(「最後の一杯」の造語)をつきあってくれとある女友達に誘われ、はす向かいのバーへ。もうsaideiraで終わりと思ったら、「saideirissimaサイデイリッスィマ(ほんとに最後の一杯)!」、さらに「segunda saideirissima(二つ目の、ほんとに最後の一杯)!!」までつきあわされて、くたくたで帰宅。そんなわけで、翌日の午後である今も、疲れが取れず、まだ心身がぼんやりしているのだ。まさに「ぽっかり、ぼんやり」である。

ひさびさのサンパウロへの旅であった。リオとサンパウロを、この4年間に20回以上も往復しているのだから、「旅」という言葉はふさわしくないかも知れないが、実に半年ぶりの訪問だったので、少し旅気分であった。かの地には、日本人の友人も多く、また日系の親戚(移民の子孫)も大勢いる。つまり僕にとっては安心のできる土地で、サンパウロへ「行く」というべきところで、ついサンパウロに「帰る」という言い方をしてしまったりする。リオに居住するのだから「リオに帰る」というのが正しい使い方であろうが、4年住んでいても、心の底ではサンパウロにより親近感を持っているのかも知れない。

その親しみあるサンパウロへ半年も行かなかったのはなぜかと言えば、「録音が終了するまでは、どこへも遊びに行ってはいけないぞ」と自分に厳しく禁じたせいである。そう、つまり長かった録音がようやく終わったのである、。実際は、コーラスなど細部の録音がいくつか残っているが、もっともだいじな録音が全て終了したわけである。安心して、サンパウロで飲み、食べ、話し、笑い、歩き回ってきた。
サンパウロは、なにしろ日系移民が世界一多いところだから、和食には困らない。4年ぶりでおいしい「焼き鳥」も食べることができたし(その名も"yakitori"という店)、新鮮なかつおの刺身なんぞにもありつくことができた。しかしそれよりなにより嬉しいのは、友人相手に日本語を思う存分話すことができること。母国語というのはいいものだなあと心から思う。リオで、もっぱら「ひとりごと」と「思考」だけで日本語を使用している生活というのは、なかなか孤独な生活なのかも知れないな、とも思ったり。サンパウロに「帰って」、ブラジル人のポルトガル語並みの猛スピードで日本語を話す自分が頼もしい。

しかし、僕のサンパウロ滞在は日本へのsaudade(郷愁)を解消するだけでは終われない。偉大なピアニストWanderleyヴァンデルレイのお宅を再び訪問して、僕の昔のCD「風」を進呈するとともに、奥方Angelaアンジェラさん手料理のおいしいrabada(牛の尻尾煮込み)もごちそうになった。ひょんなことでリオで知り合った、極東の無名歌手をこうして古くからの友人のように厚くもてなしてくれる。ブラジルならではのことであろうと思う。僕の新CDの発表記念ライブへの出演もOKをいただいた。「あなたのショーにWanderleyが参加したくないなんてことはありえないわよ」と夫人が付け加えてくださった。
この国では、人と人の間に年齢やキャリアや名声の差といったものでできた「垣根」がないと実感することが多い。互いの間で真にだいじなことが、面倒な手続きなしに、より早く、ストレートにコミュニケートされている。かつて言葉の通じない見知らぬ者どうしが、臨機応変、力を合わさねば生き抜いてこれなかった移民の国、の特性であろうか。

また、有能な音楽プロデューサーであり写真家のWalterヴァウテルとの間で、新CDのジャケットデザインについての充実した打ち合わせを持つことができた。サンパウロでのCD発表記念ライブの会場探しも始めてくれるという。ほんとうに、友人ヴァウテルの協力には惜しみが無い。
打ち合わせの後は、共通の友人Aryアリーさんの店でワイン三昧。ブラジル南部のガウーショ(牧童)気分満点のワインバーである(ブラジル南部は有名なワイン産地)。リオが大嫌いなガウーショ、アリーさんの店で、リオがやはり嫌いな友人川原崎と、サンパウロの地方なまりのあるヴァウテルと、ブラジル南部で作られたワインを飲む。どうも、カリオカ音楽家としては、多勢に無勢のようだが、いや、これがいつも楽しい宴である。
ワインでほろ酔いになったところに、例によって(つまりいつも)、東洋人街リベルダーヂでカラオケバーを経営するHさん(元任侠道の重鎮)からのお誘い。川原崎とHさんと、今度はウイスキーで飲み直しである。Hさんが豪快についでくれるジョニ赤の瓶の頭が、我がグラスの水中深く突っ込まれているのを懐かしく眺めながら、頭の中が遥かになってゆく・・・

かくして混沌のサンパウロの一週間は、あっという間に過ぎ、再び海と太陽のリオである。あと一ヶ月で、サンパウロのスタジオでCD制作の最終作業であるミックスが始まる。それまでに、録音と編集の「すべて」を完了させねばならない。時間はたっぷりある。今までと同じく、悔いの無いように、慎重に、作業を進めるのみである。
今日は休んで、旅の疲れをしっかり取ろう。明日から、仕事再開である。演奏のトレーニングもそろそろ再開しないといけないな。歌の録音と編集作業の毎日が続いて、どうも指がなまってきたようだ。いかんいかん。CDができた、が生演奏で再現ができない、ではすまされないからな。これから先は「すべて同時」に進めなくては。
僕は今、長きに渡った洞窟修行生活の中から、明るみへと徐々に出てゆく、そんな過程にいるのだろう。洞窟の暗がりに慣れた目には、ちょっと怖いような、しかし、行かねばならない。行かねば生きてゆけない。

そういえば、リオに住む人間とは思えないほど色が白くなってしまった。久々に、praia(砂浜)に出てみようか。海岸ウォーキングも再開して、なまった体も元に戻さなきゃいけないな。すべて同時、だ。うむ。

以上、ひさびさの航海日誌。「アルゴ号、潜水やめー、浮上せよ!」の巻であった。



2008年1月17日(木)

また木曜日の日誌だ。BipBipの水曜ホーダ(ボサノヴァの集い)で思い切り弾いて歌った翌日は、ノドも指も使い物にならないので、畢竟休日となり、こうしてものを書く時間もできるということなので、木曜の日誌が多くなるのは、どうもいたしかたない。
昨日のホーダは、国際ホーダ第二弾という感じで、今度はなんとスイス人女性ボサノヴァ歌手、の登場であった。ジェニさんという方。たいへん美しい人で、しかもモレーナ(黒髪で褐色の肌の女性)。スイスになぜモレーナがいるのかわからないが、日本にも、西洋人みたいな人やインド人みたいな人はいるのだから、おかしくはないか。しかしきれいな人だったなあ・・。
ポルトガル語も流暢に話すので、他のブラジル人たちはみな、彼女をブラジル女性だと思い込んでいたようであった。なんでも、スイスでブラジル人ミュージシャンたちとボサノヴァの仕事をしてるんだそうだ。もはや、ボサノヴァは世界の共通言語になってしまったのだろうか。

そのジェニさんや、ホーダの"comandante"(司令官)レナ(この女性がいないときに僕は"責任者代行"となる)らとともに、本年3回目のホーダであった。まあしかし、この時期は、カーニバルも近いし、真夏だし、客のみんなも浮かれて来て、普段でさえ騒々しい店が、ますます騒がしい。店長のアルフレードは、うるさい客がいると、「騒ぎたいヤツは、向かいのバーに行ってくれ!あそこにはリオで一番冷えたビールが置いてあるぞ!」などと怒鳴ってくれることもあるんだが、さすがに文句の言いにくい客もいるんだろう。昨日はとくにうるさかった。小声のジェニさんには大変気の毒なことであった。その騒がしいところへ、今度はテレビ局(SBTという全国ネット局)の撮影隊の到着である。
BipBipはこんな小さな変哲もないバーだが、各種ホーダで有名であり、こうした取材はしばしばある。すでにこの僕もテレビ画面にほんの数秒だが登場したことがあるのだ。だから、別に驚かなかったが、昨日はどういうわけなんだか、日本人で歌ってるのがいるらしいが、それを撮りたい、と言って来たそうで、なんで俺なの?と面食らったが、しかたがない、日本語でなんか歌ってくれというから、僕のボサノヴァ"Song for Lila"をまるごと歌ってあげた。思い切り"カメラ目線"で。あんなにうるさかった客達も、思いがけない撮影隊のカメラとライトには静まり返ってくれたものだ。
カメラをかついだおじさんが、ブラジルのボサノヴァで、日本語に訳したものはできないか、と言ってきたが、そんなものは用意してないよ。撮影はそれで終わり。なんでも、昨夜のうちにニュースかなにかで流したらしい。ああよかった、自分の姿を見る機会がなくて。自分の歌う姿なんて、ご免こうむる。しかしテレビ局撮影隊が来るというので、ちょっと気合いの入ってたホーダ仲間は、目当てが僕だったということに、どうも拍子抜けしたようで、不機嫌な様子の人までいて、これもまた気の毒なことであった。おれのせいじゃないんだけどなあ。第一、気持ちよく酔っぱらいながら、仕事でない音楽をやっているときに撮影されるってのは、どうもいかんですよ。楽しみを邪魔された感じ、というのかな。いくらこれで少し有名になるんだとしても、いやだなあ。BipBipは音楽家の「隠れ家」なんだから。

その後、「プリュ、ブジュ、クリュ」みたいな、例の発音で喋りかけてくるフランス人ギタリスト(前々回の「文学顔」とは別人)が乱入してきたり、常人の2倍のボリュームで激しく弾きまくるパウリスタ(サンパウロ人)のリーヴィオ、盲目のパーカッショニスト、マウロ(パンデイロをスティックで叩くから騒々しいことこの上ない)などのおかげで、十分心身ともに疲れたのち、閉店。
疲れていたが、美しいジェニさんがもう少し歌いたいというので、僕としては異例なことだが、積極的に仲間を誘って、海岸ホーダ続行。演奏はベネ(ドレッドヘアの黒人弁護士。この人も常人の3倍くらいの音量で弾き、叫ぶ)にまかせて隣のジェニさんと話す。彼女はスイスで作った自分のCDを持っていたので、僕が買いたいと言うと、「あげます」と言ってくれた。「僕の今度のCDは必ずさしあげますからね」と約束して、いただく。
ありがとう。今うちで聴いてます。スイスの音がします。透明な音。

海岸ホーダは、空き缶収集ホームレスの襲来(自ら、リーヴィオのギターケースを蹴飛ばして、いてーいてー、病院行くから金よこせー、というコパカバーナ版「当たり屋」)で、皆危険を感じてお開き。我らボエーミオ(ボヘミアン)組は、さらに場所をLemeレーミ海岸(コパカバーナのお隣。もっと平和。)に移して続行することにしたが、ジェニさんはお帰りになった。残念。
もう会うこともないだろうか。スイスに僕が行くということは、ないだろうねえ、一生。登山もやめちゃったしなあ。
いい仕事しましょうね、お互い。そして外国人ならではのボサノヴァ、を追求してゆきましょう。さようなら。

さて、残る録音は2曲。そう、この2週間で4曲をすませたのだ。だんだん、調子がよくなってきた。2週後のカーニバル前までには、なんとか終わらせられるかな。録音が終わっても、編集、ミックス等、まだまだだいじな作業が残っているが、気分はもう、マラソンランナー、競技場に入って最後の一周、というようなところである。
まだ気は抜けないぞ。自信を持って、体を整えて、頭は使わず、明日からの録音に備えよう。
さて、ジェニさんのCD、続きを聴こうか。透明な異国の音を。



2008年1月3日(木)

新年三が日。正月だけは日本のほうが、のんびりしている。
ブラジルでは、正月のお祝いは、コパカバーナの大花火大会(新年に入った瞬間から20分間ほど、海上に無数の巨大花火が炸裂する)に代表されるように、瞬間的に、熱狂的にすませる感じで、あとは休日の元旦を二日酔いでだらーっと過ごして、二日には仕事始め、というのが普通のようだ。が、二日の昨日は水曜日。コパカバーナのバーBipBipビッピ・ビッピでの、仕事始めならぬ、「rodaホーダ始め」であった。ホーダは音楽の「輪」である。「水曜Bipボサノヴァの輪」責任者代行として、その本年最初の輪に欠けることは許されない。

時節がらか、観光で来ている外国人の参加が多かった。いつものカリオカ歌姫衆、不思議自作パーカッションのマリオおじさん、フランス人(ギタリストとサキソフォニスト)にイタリア人(ギタリスト)、それに日本人の僕。なかなか国際色豊かであった。しかし外国人の彼らはもう、自分のできること、彼(か)の地で一生懸命覚えて来たことをブラジルで披露したくてしかたがないから、おれが、おれが、となって、当然ホーダは混乱する。
BipBipのホーダは、音楽愛好家の自然的集いだから、自分勝手な人が入って来たからといってむやみに「はい、君、出て行きなさい」とかいうわけにはいかない。収拾がつかないまま、みんな黙って我慢するというようなこともある。開けっぴろげなブラジル人でも、こういうときは案外、我慢強く耐えているものである。
昨日のホーダがそうであった。
「ちょいと歌わせてくれ」とか言いながら、妙に文学的顔立ちのおっさんフランス人が、ほぼ「がなり」立てながらバラード調の弾き語りを連発(バラード調の曲は往々にしてひとりの世界にハマるので、他のみなは黙って聴かされるはめになる)。歌の合間に、なにやら詩の朗読なんぞも入れて、もうすっかり自分の世界に浸り切っていた。かと思えば、サーファーっぽい風情のイタリア人青年が、「見て見て、すごいでしょ」という感じで、たぶんものすごく練習してきたのであろう、器用な指さばきで、誰も歌でついてゆけないようなスピードで弾きまくる。つまり、これもみんな黙って聴かされる。
ホーダは、「輪」なんだから、誰かが主役になってはいけない。
みんなでともに弾き合い、歌い合わなければ、ホーダではない。

さて、こういうとき、ホーダを救うには、ちょっと意地悪に、政治的になる必要がある。僕はなにせ責任者代行なので、その意地悪役をよく買って出る。例えば、その文学顔フランス人や、サーファーイタリア人が一曲弾き終わるか終わらぬかのうちに、何も言わずに、みんなが歌いたい曲のイントロを弾き始めてしまう。つまり強引に彼らの世界を終わらせてしまう。外国人ボサノヴァ好きのレパートリーは、ブラジル人のそれとけっこうズレがあるから、彼らの知らない曲が始まってしまって、もうついてこられない。頑張ってソロなんかぺんぺん弾こうとしても合唱のボリュームにうもれて、誰の耳にも届かない(Bipにはアンプなんてものはない。完全「生」)。かわいそうだが、ホーダを救わねばならん。ごめんよ。それで、そのまま休まずメドレーで2曲くらいやってしまう。その間、欧州組は次第になんだか元気がなくなる。みんな僕の伴奏で楽しそうに嬉しそうに歌っている。カリオカ歌姫衆も、その他の客もだんだん調子づいてきて、あれだこれだと、ほうぼうからリクエストが始まる。
これがつまりホーダ。そしてどんどん来るリクエストに応えられるギタリストは、僕しかいない(意外なことだが、リオはボサノヴァのスペシャリストに乏しい)。とにかく、男も女もみんなが歌えるキーで、みんなが気持ちよく歌えるテンポでみんなが愛する曲を、はてしなく伴奏して進ぜる。もちろん僕も一緒に歌うが、Bipでの僕の役目はなんといっても伴奏ギタリスト。あまりにも、伴奏役に徹して来たので、突然「ミチナーリ、なんか好きなものやってくれ!」とか言われると、あれ、なにも浮かばないな、ということになる。まさにマシン。

マシンのように、9時から夜中の1時まで、汗だくで弾き続け、閉店後も有志数人でそのまま海岸へ場所を移してホーダ続行。ビールとカシャーサ(焼酎)が入っていたから、最後の方はなにを弾いていたものか思い出せないが、たしか朝の5時過ぎまでやっていたと思う。以前は、Bip閉店後の海岸ホーダは珍しくなかったが、ここのところ、みな元気が無くご無沙汰していたのだった。
海風に吹かれながら、おだやかな波と月を眺めながら、仲間と音楽三昧。いいものだな、とあらためて思った。そして、つまりこれが僕のコパカバーナ、なんだな。
ボサノヴァの生誕地。ビールと交友の、開かれた海辺。世界のボヘミアンの解放区。そういえば、最後まで、サーファーイタリア人もいたなあ。それに、いつの間にか、文学顔フランス人も海岸ホーダに紛れ込んでたな。みんなブラジル音楽がほんとに好きなんだ。いいやつらだ。さっきはごめんよ。

かくして、ホーダ始めもすませ、あとは仕事始めを待つのみ。明日からいよいよ歌唱録音後半戦に入るとするか。昨日今日の練習を見る限り、歌唱は一ヶ月のインターバルの間にかえって向上している気がした。苦手音域の調律が以前より安定してきている。なんだ、これまでの8曲も録り直しか?いやいや、欲張ってはいけない。まずは残り7曲を終わらせること。
さて、本年最初の日誌だ。声も高らかに行こう。

「アルゴ号点検異状無し!出発用意!」



2007年12月18日(火)

ようやく長い風邪が治ったようだ。暑いから、風邪をひいていても半裸で生活しなければ耐えられないので、なおさら、治りが悪かった。熱帯だから暑いのは当たり前だが、東京の夏と違って、風はひんやりしているし、夜はけっこう涼しいのだ。暑いなあと思って、ベランダなんかで風に当たっていると、あっという間に体を冷やして「ックション!」ということになってしまう。

さて、この二週間、風邪のおかげで何も録音できず、練習すらもできず、もう歌い方を忘れてしまったような気さえする。それでも、何もしないわけにはいかないから、今まで録音した歌唱の編集作業を毎日コツコツとやっていた。
小さな録音機の小さな画面を見つめて、0,001秒台の細かさで音をチェック、編集する。こんなことは、昔には考えられなかったことだろうが、デジタル時代の今では可能だ(おまけに、「超」機械音痴の僕にも可能だ。いや、自分で言うのも何だが、実は相当「熟練」のレベルに達してしまった)。しかしデジタル時代と言ったって、アナログ人間である僕のイメージでは、時計修理屋さんがピンセットで何かいじってる、みたいな作業なんだが。
最初の日誌に書いたように、歌の録音にはリップノイズ(「プチッ」という口中の雑音)が多い。その除去作業は、当初かなり試行錯誤したものだが、もうこれに関してもかなりの「熟練工」で、ノイズ部分を安易に"erase(消去)"したりはしない。たった0,003秒間くらいでも、"erase"すると、「場の空気の音」も消えて、その部分が完全な無音になり、かえって不自然に聞こえてしまうのだ。そこで僕は雑音ポイントに向かっての0,003秒のフェードアウトと、雑音ポイントからの0,003秒のフェードインを合わせて、無音部分はつくらずに「聞いていて自然な感じ」を保ちつつ、雑音を限りなく小さく追い込む技を開発した。なんて、別にたいした技でもないんだが。それに歌手はこんなこと覚えなくても、別に構わないんだが。

実はその昔、ファンハウスというレコード会社をいきなりクビ(アーチスト契約の反故)になって途方に暮れたときから、自分の音楽に関することならば、できる限り、他人に頼まず(もしくは、「頼めず」)、あらゆる現場を踏むことを良しとして(もしくは「余儀なく」されて)来たので、こんな発見も、その人生の延長線上のものだ。
もちろん、なにごとも自分ひとりでやろうとすれば、時間と手間は遥かにかかる。
このアルバムの録音のために、演奏の訓練や、レパートリーの選曲、アレンジをしたのは当然だが、それ以外にも、この「超」機械音痴の僕が、録音機やマイクの使用法を学ばなければいけなかったり、寝室をスタジオの環境にするために、いろんなリフォームの工夫をしたり、つまり、歌手、ギタリスト、プロデューサー、ディレクター、アレンジャー、録音技師、音響デザイナーまでやってきたわけだ。
が、すべて勉強になった。すべて血となり、肉となり、だ。人生、無駄なことはひとつもないな、とつくづく思う。

今日は、ディレクター兼録音技師として、ジョビンの"Brigas, nunca mais"のヴォーカル編集を行った。今回のアルバムでもっとも短く、シンプルな曲でありながら、もっとも僕を手こずらせた作品だ。ほんとに音程を正しくとるのが難しい。この曲に関してなら、妙な表現だが、「胸を張って」僕は音痴だ!、と言える。
この一年の間、この曲だけでゆうに正味2週間以上、恐らく合計500テイク以上は録音したのではないか。が、結局、最終日(と勝手に決めた日)の30テイクにも、満足のゆくテイクは一つもなかったので、複数のテイクを使用して、時計修理どころじゃない、ものすごい大手術("ブラック・ジャック"なみの)をやったが、細かいことはここに書かない。なに、切ったり貼ったりの外科手術をしただけの話だ。手術をしたって、100%、僕の、たった20cmの至近距離で録られた生々しい声であることに違いはない。

自分で自分の歌唱を審査する、というのは難しいだろう、と思われるかもしれない。僕自身、この録音を始める前はそう思っていた。が、求める音がはっきりしていれば、そして自分の実力の限界がわかっていれば、そう難しくはないものだ。
難しいのは審査することでなく、「審査に値する」最低限の美質を備えた演奏をすることだ。最低限クリアーされなければならないのは、やはり音程とリズムと声質、この三つ。「歌の味わい」については、不満があっても一朝一夕に老成するわけにはいかないので、多少未熟でも、現時点で最良の味わいのあるテイクを採ることで、足るを知る。
今まで、録り終えた8曲の歌唱については、「総見」と編集を通し、その三つの条件に鑑みて、もう再録音の必要はないと見た。しかし、理想の「音程とリズムと声質、この三つ」を同時に満たすことの、なんと難しいことだろう。

あと7曲。一年にわたる録音マラソン全行程の中では、もう競技場間近!のあたりであろうが、「歌唱」録音全行程の中では、まだ「折り返し地点」を過ぎたばかりだ。まだまだ気は抜けない。風邪で、ずいぶん時間をとられたが、しかしこれも、後半戦へ向けて英気を養うための必然、と考える。もう、すべて良い方に解釈するのだ。そういうクセがついてしまった。マラソンランナーは、そうでなければ、もたない。大晦日、正月も、おれはマラソンしてるんだろうか。だろうな。
リオは、さすがにクリスマス、正月大花火大会、そして2月のカーニバルを控えて、お祭りモードに入って来たようだが、コースから脱線しないよう、気をつけないといかん。もう、「夏だ!、海だ!、ビールだ!、カーニバルだ!」のリオ熱気団はすごいからね。
ああ、早くこのマラソンを終えて、その熱気団に身をゆだねて、何も考えず、思い切り、キンキンに冷えたchopp(生ビール)を味わいたいものだなあ。



2007年12月10日(月)

今日の日誌は軽量級、で行こう。でないと続かなくなっちゃうからね。
先週ひいた風邪は、症状がノドから鼻に移って、それがなかなか頑固でいまだ鼻声。もう寝ている必要はないが、鼻声では仕事にもならず、まったく困ったものである。

ブラジルはあと10日で、夏に入るとか。しかしリオは事実上真夏だ(「リオは一年中夏。リオの冬は涼しくなった夏。リオの春・秋はやや涼しい夏」というのが僕の持論)。ほんとに暑い。新居は最上階だから、日当りのいいぶん暑いのは確かだが、同時に風通しも良い。ベランダから、いい風が入ってくる。が、無風のときは、かなりきつい。熱帯のリオだから、裸になっても、暑い(といっても、実は東京の夏よりは楽)。
このアパートには全部屋にエアコンがついているが、体が冷えるので僕は好きじゃないし、だいいちブラジルのエアコンは騒々しくてダメ。日本の数十年前にあった「クーラー」の音だね、これは。新品でも、同じこと。「ガー、ゴー」とものすごい音がする。そのクーラーの名前が「silentia(イタリア語だろう。"静寂"の意)」だから笑っちゃう。いや笑えない。とにかくうるさい。僕は、もうとにかく騒音が苦手だから、それなら扇風機、となるが、この扇風機が、またどうして、うるさい。
ブラジルの扇風機は、たいがい三段階の風力調節ができるが不思議なことに、一つ回すと、一気に最高風力になる。で、二、三つめと回すにしたがって、弱くなる。一つ回す操作で最強、ということは、ブラジル人には、この騒々しい最強モードが通常モードなのだろう(しかし三つめの最弱モードでも、日本の扇風機の最高モードなみの風力と騒音である。理解に苦しむ)。
ちなみに、ブラジルのエアコン付きバスなんか、尋常な冷え方ではないよ。あれは冷房車じゃなくて「冷蔵車」だ、と言いたいくらいのもので、僕は長距離バスの場合は必ず、セーターを持ち込むことにしている。ところが、セーターを着て、配られたブランケットで身を覆い、ふと回りを見渡すと、Tシャツに半ズボンで平気な顔をしているブラジル人がいっぱいいる。
なぜだ。
騒々しく強力な扇風機やクーラー。
骨も砕けよと揺れながら、右左折時にかえって加速する殺人バス(事実、バスによる殺傷事故は多い)。
今にも解体しそうな「やわ」な車体で、でこぼこ道路をジャンプ(誇張ではない)しながら疾走するタクシー。
ブラジル人が鈍感で、日本人が敏感、というべきか、それともブラジル人の神経が強靭で、現代日本人のそれが虚弱に過ぎるというべきか。この辺りは、世界の「繊細度」の基準がないので何とも言えないが、少なくとも僕自身の基準からすれば、信じがたいほど、みな、五感の「抵抗力」がある気がする。体力もあるんだろう。よぼよぼのお婆さんが、その殺人バスの中、転倒せずに歩くんだから。
リオ市での「生活イメージ」は、ボサノヴァの繊細なイメージからはほど遠い。身も心も、タフでなければ生きてゆけない。

話を今日的話題、「扇風機」に戻そう。
日本ではあまり見られないが、リオでは「天井扇風機」は一般的。あれは微調整がきくし、ゆっくり静かに回っても効果が十分あるので理想的なのだが、今朝アパートの貸し主に電話したら、「工事はダメ!」と、けんもほろろの返事。しかたなく隣町ボタフォーゴの"CASA&VIDEO(家とビデオ)"という名のリオ版「ロジャース」「ドンキホーテ」みたいな店に行って、卓上扇風機を大小2つ、購入した。家に持ち帰って、ああ、これで涼しいぞう、とスイッチオン。いきなり「ガラガラ!」と暴力的に旋回したと思ったら、ものの数秒で「バキ!」とプロペラ破損。構造上何らかの欠陥があったんだろう。欠陥商品はこの国では日常茶飯である。またかよ、である。小さい方は大丈夫だったが、僕はこういうことは、翌日まで解決を持ち越したくない性格なのでまた"CASA&VIDEO"まで、扇風機とともに戻る。ああめんど。
そして何年ブラジルにいても耐え難いのが、アテンド待ちの「列」。列の長さ、そして、店の対応の遅さ、である。しかたがない、頑張る。
わけを説明して別の品と交換してもらい、家で再びスイッチオン。今度はOKだ。涼しい。が、やはりうるさい。

さて、こんな雑事にかまけているうちに、もう夕方だ。ブラジルでは、一日に、数多くのことをこなせない気がする。
なぜかな。
生活の中で「待たされる時間」が長いせいもあるだろう。また、暑さのせいで、動きが緩慢になるせいもあるだろう。さらに、何ごとにも急がない、カリオカ民族の「気持ち」のせいもあるだろう。そして「暑さ」と「海」とは、そのカリオカ性を形成した重要なファクターだと思う。
日本から来た旧友が、僕の「話すスピードが遅くなった」「動きが緩慢になった」などと評するのを聞いて、なるほどと思ったものだ。それでも、自身は「ああ、なんて遅いんだ、みんな」「おい店員たち、やる気がないのか!」とか、日々いらいらすることが多いんだがな。
ミイラとりがミイラ、知らず知らずカリオカ化、てことだろうか。嬉しいような、困ったような。

軽量級のつもりが中量級になってしまったかな。今日はこの辺で終わりにしておこう。
今、日本の実家から、例によって、「お楽しみ小包(頼んだ品物や頼んでない物までいろいろ詰まった)」が届いた。福袋、みたいなものだ。ありがとう母上。さて開けよう。



2007年12月5日(水)

気がつけば12月、だ。録音開始が2月だったから、かれこれもう10ヶ月もマイクの前で苦闘してきたわけだ。まあその間、何度か再練習の月が入ったから正味録音期間は半年だろうが。たかだか1時間足らずのアルバムにこれだけの時間と労力を捧げるというのはuma loucura(気違い沙汰)だというのはわかっている。たった一日の入学試験のためにまる一年を費やした浪人時代を思い出す始末だ。
この膨大な時間について、否定的見解で言えば、「演奏技術を、録音可能なレベルに引き上げるのに時間がかかった」。一方、肯定的見解で言えば「録音の試みを繰り返す中で、結果、演奏を向上することができた」ということである。
なんとしても、今月の大晦日までには、少なくとも録音だけは完了させたい。

が、なんと日々の生活には、目的達成への障害が多いことだろう。アルバム制作以外、他に仕事をしていない僕のような者にも、障害は多々あるのだ。
先週金曜のアントニオおじさん宅での特製カシャーサ(さとうきび焼酎)は案の定、効果抜群で、翌日まで脳髄がぼんやりしていたし、週末は「完全」引っ越しのための録音機材解体、運搬、さらにどこでウイルスをもらったか、一昨日、月曜にはノドの痛み発生。これを悪化させると、得意の長い長い風邪、になるから、昨日は完全休養。この蒸し暑い中(昼間は30度以上。しかもここ数日リオは蒸している)、パジャマ着て窓閉め切って松本清張読んで、眠ったり起きたりしていた。その効果ありで、本日(水曜)はノドの痛みは去り、とはいえ、まだ声は普通に出ないし、体も重い。つまりまだ風邪は体から出て行ってないから、半ば休養。
しかし休養と言ったって、「主夫」だから、買い物には行かなきゃ行けないし、洗濯だ、調理だ、となにかと忙しい。ちっとも休養になってない気がする。これで日誌を熱心に書いてさらに、発熱してるところだと思う。熱なんか測ったって、「おお熱いな」とかひとりごちて感心するだけで意味が無いから、測らない。

買い物、と言えば、今度のアパートの近くには、なんと中国人経営の「日本食材(もちろん中国食材も)販売店」が二軒もある。これは広いリオでも唯一、でない「唯二」の二軒で、コパカバーナ時代には一ヶ月にいっぺんくらいザックを背負って、なんか戦時中の配給をもらいに出かける、みたいな気合いの入った様子でこのフラメンゴまでわざわざ買い物に来てたものだ。だから鮮度がだいじな豆腐なんか、一ヶ月に一度しか食べられなかったわけだ。
実はリオの一般スーパーでも、店によってはサンパウロ産の豆腐が売っているが、僕の知る限り、100%傷んでいる。賞味期限内であっても、だ。チーズの仲間くらいに思って、あまり保存方法に気をくばっていないからだろう。つまり「酸っぱい」。豆腐がさらに腐る、というのは奇妙だが、腐るよね。リオの人間はそれを「おお、酸っぱいが、これがtofuというものだね」などとありがたがって食べているのだろうか。一度、スーパーに苦情を言った(「僕は日本人だよ。本当の豆腐の味というものを知っているのだよ。サンパウロからの運搬法に問題があるのかも知れませんね。気をつけた方がいい」などとえらそうに言ったら、「ああ、では、あの別の豆腐を持って行っていいですよ」ときた。「だから他のもみんな腐ってるんだってば!」)が、効果はなかったようだ。
それが今では、5分歩けば、サンパウロから週2回届く、まずまず新鮮な豆腐が毎日手に入る。日本製よりおいしいサンパウロ産「超糸ひき納豆」だってある。どれも製品のバリエーションは乏しいが、日本人が、食卓にこれだけは欠かせない、というものはたいがい売っている。この地球の裏側で、ありがたいことだ。

さて、新居だが、大いなる欠点を発見した。7度目の引っ越しでとうとう、最良の住処(すみか)にたどりついた、と思っていたのだが・・。
それは何かと言えば、住み始めて早々、どうもエレベーターの音が、ドッカン、ガッチャンと騒々しいなとは気になっていた(リオのエレベーターの多くは建物同様50年代以前の時代物)のだが、なんと、居間の壁越しの、無人の隣室(通常なら隣家があるべき空間)はただの空間ではなく、この建物のエレベーター2機の、なんだろう、巨大な心臓部たる「駆動機」みたいなものがあるらしいのだ。エレベーターが1階から2階へ上るだけでも、ここ最上階(9階)にある駆動機がドッカン、ガッチャンと騒音と振動をさせながら働く仕組みになっているのだった。
これだから、住居は「住んでみなきゃわからない」のだ。しかし、もう引っ越しはしない。この新居はその欠点を補ってあまりある快適性を備えているから。
引っ越し話のついでに、ざっと過去4年の、僕のリオ・アパート遍歴をさらってみよう。

リオで最初の住居:
コパカバーナにある友人宅の女中部屋。いや、扉も壁もないので、とても部屋とは呼べない。2畳ほどの、物置みたいなスペース。その2畳間片隅に便器コーナー、こともあろうに、その便器の「真上」に固定シャワーがある。風呂場と便所の区別がはっきりしている日本人には理解できない。しかもどうやって浴びろというのか。便器に座ってか?シャワーのたびに便器もびしょびしょ。でも僕はなんとかしのいだ。3ヶ月居住。

2つ目の住居:
友人のさらに友人のアパート。ゲイで映画人であるアパート主人が不在の2ヶ月居住。あこがれのイパネマ、なかなかオシャレなアパートだったが、その主人の養っていた?大量のノミとダニの退治、および寝具から発せられる主人の「ものすごい」体臭除去作業に追われた。ノミばかりか、どうも幽霊もいるらしいことが発覚。こちらが金をもらいたいくらいの管理人生活だった。帰国した主人に恨めしそうに「ノミがいっぱいいたよ」というと、「へ、そうか?気がつかなかったな」だと。ノミもあの体臭ではご免こうむる、ということかも知れない。壁にブリーフ姿の男性の、妙にカラフルな絵が掛かっていたのが不気味な思い出である。ここに一泊した友人川原崎は「幽霊部屋」で寝て、難しい風邪にかかって一年以上、咳に苦しんだものだ。

3つ目の住居:
イパネマ、Rua Nascimento Silvaナシメント・シルヴァ通り、なんとジョビン旧居(107番地)の真向かい(110番地)のアパート。たいへん光栄なロケーションだったし、家主が建築家ということもあって内装も美しかったが、寝室の真下が駐車場で、毎朝出てゆく車の騒音に耐えかねた。当時はなぜだかわからなかったが、電動ノコギリも始終外で鳴っていてうるさかった。半年居住。
ちなみに名曲「コルコバード」はその107番地で50年代に作曲されたものらしいが、その歌詞の「窓からはコルコバードが見える、キリスト像、なんて美しい!」という眺めを遮断したのが、まさに僕の住んだ110番地の建物だった。ジョビンにすれば、彼の引っ越しの原因となったいまわしい建物であったかも知れない。また、ボサノヴァ好きの人なら知っているだろうが、ToquinhoトッキーニョとViniciusヴィニシウスの共作「トム(ジョビン)への手紙」という曲は、"Rua Nascimento Silva107, voce ensinando pra Elizeth"の名フレーズで始まる。

4つ目の住居:
同じくイパネマ。今度もやはりボサノヴァの歴史上重要な場所、ジョビンとヴィニシウスが「イパネマの娘」を作った場所とされるバー"Garota de Ipanema"のはす向かいに位置するアパート。イパネマ海岸まで1分。静かでひんやりとした、過ごしやすいアパートだったが、隣の老人が、数十羽の小鳥、3匹の犬、数匹の猫を飼い、それはまだしも、老人が終日口笛を小鳥に向かって吹くのにはまいった。3ヶ月居住。

5つ目の住居:
コパカバーナ海岸沿い。というとベランダから海が見えて、朝陽が差し込んで、と思うだろうが、海の見えない裏通りに面したアパート。有名なディスコ"HELP"の並びで、一歩外に出れば盗っ人がうようよ。まさに「あやしく危険なコパカバーナ」のまっただ中、のロケーション。感じの悪い門番たちと言い争いになって、早々に出る。2ヶ月居住。

6つ目の住居:
終日、バスとタクシーと人間とで埋め尽くされる、喧噪の「コパカバーナ大通り」に面した建物。しかし建物の奥にアパートがあったので、大通りの騒音も届かず、かなり静かだったが、当初はここでもノミ、ダニに苦しめられた。毎晩10カ所以上も食われた。毎朝、鳩がポーポー、窓下あたりでかわいく鳴いとるなあ、と思っていたら、なんと窓下の冷房機用の穴(空間)に鳩の巣があったのだ。ノミ、ダニは、この鳩たちからやってきたのだった。以来鳩が「平和のシンボル」だなどとは思えない。巣を除去してノミダニ問題は解決。
が、以後も風通しの悪さと、なにより階下の住人夫婦の度重なる苦情に悩まされ続けた。僕の足音がうるさくて眠れない(旦那のほうはもとから不眠症だったらしいが)、というのだ。女房のほうが「あんた、いったい夜なにやってんの!」とヒステリックに言ってきたから、「歩いてんだよ」と冷たく答えてさらに関係悪化。しかし普通に部屋を歩いているだけで、階下にズシンズシンと振動で伝わるという事実を知ったが、それは建築上の問題(リオのアパートは壁も床も激薄)で僕の責任ではなかった。が、苦情の方法が下品(ほうきの柄で天井を突くとか)だったので、こちらも頭にきて反射的に、思い切り床をガシガシ踏んづけてやったら、夫婦揃って「警察呼ぶぞー!、このやろー!」などとわめき始める事態にまで至った。ここはブラジル、こんなことでも殺されたりしかねないから、以後は「踵(かかと)で歩かず、膝のクッションを効かせ、足の裏全体でソフトに着地する」よう努めた。椅子にもテーブルにも靴下を履かせた。
昔、父の言ってた「アパートなんてのは、体(てい)のいい長屋」というフレーズが蘇り、納得する。それでもここには頑張って1年半居住した。結果、床を振動させず、猫のように、忍者のように歩く術を体得。

7つ目の住居:
6つ目の住居から100メートルくらいの距離だったから、路上生活者、兼運搬業("尻尾の無いロバ"と呼ばれる)のおじさんの大八車(これがおじさんのベッド)で引っ越し。2メートルほどの高さにまで荷を積み上げた大八車が、喧噪のコパ大通りをそこのけそこのけと進む様は壮観だった。
このアパートは、すべての家具、器具が「舶来」の高級品で、快適そのものに見えたが、早朝5時半に始まる階上の住人(女性兵士)のまさに、「行進」の足音に悩まされ続けた。つまり、前回と立場が逆転して、僕が「警察呼ぶぞー」の役回りとなったのだった。警察は呼ばなかったが、「踵で歩かないように。猫のように歩きましょうね」などと極力平和的に、計4回の苦情を正式に(書面で、門番と住人代表を通して)行ったが、効果はなかった。そしてとうとう「下品な」抗議、つまり、ほうきの柄で天井をガシガシやるに至った。それでも無視されたから、ほうきを3本束ねて、さらに鉄アレイを装着した「必殺重ほうき」までこしらえたが、これもあまり効果はなかったようだ。面と向かって日本語で抗議しまくってやろうとも考えたが、そこは女性兵士、何か武器を持っていないとも限らない。しかもヒステリックな女性のようなので、ここでも生命の危険を考えて、我慢した。
なんだかんだと文句言いながらも1年半居住。しかし、強制的に早起きさせられたことで、夜行性の僕にはついぞ知ることのなかった、早朝のコパカバーナ海岸の美しさと、散歩の心地よさを味わうことができたのは、嬉しいような、口惜しいような思い出である。また、電動ノコギリの恐ろしい音も、コパカバーナでは耐えることが無かった。「3つ目の住居」に泊まった友人の川原崎が発した名句「ここは工場(こうば)か!」を、何度繰り返したことだろうか。古い建物ばかりのコパカバーナは、リフォーム工事のまさに「るつぼ」である。

かくして、その振動騒音の苦しみがほとんどトラウマ(足音の幻聴で目を覚ましたりもした)になった頃、階上に住人のいない、つまりcobertura(最上階)のアパートの空きを運良く見つけた。現在の新居である。12畳ほどのベランダからフラメンゴの海が垣間見える。居間も12畳ほどあるだろうか。風通しが良い。僕は全食自炊なので、台所が広いのもありがたい。最上階だから当然天井の足音に悩まされることもない。

とまあ、ざっとこれまでのアパート遍歴、「とかくリオは住みにくい」の巻であったが、目下の問題は、この新居の寝室をいかに録音スタジオに改造するか、である。あのドッカン、ガッチャンが録音されないためにはどうしたらよいのか。昨日から、病の床で策を練り続けている。
と、友達のReginaへジーナ夫人から「今晩、Bip行くの?」の電話。今日は水曜("ボサノヴァの輪"の日)なのだった。「風邪でね、どうも行けそうも無い」というと、「え、また?!」と。そうか、僕は風邪を頻繁にひいてるのか。長引く録音と練習作業による運動不足のおかげで、どうも免疫力が低下してるのは否めないな。あと少し、あと一ヶ月足らず。なんとしても終わらせなければ。新年は、「せいせいと」迎えたいものである。



2007年11月29日(木)

リオ嫌いの友人川原崎と、一緒に来たリオ大好きのA君(かつて銀行駐在員としてリオに滞在していた)の二人は二泊だけして、昨日サンパウロへ帰って行った。魚アンショーバの豪快な塩焼きをさかなに芋焼酎もうまかったし、感じのいいbotequimボチキン(「飲み屋」の意)にも案内できたし、今回は、川原崎もリオのイメージを少しは良くして帰ってくれたのではないかと思う。
知らず知らず、僕もリオの味方だ。4年もたてば、「住めば都」ということだろうか。ほんとは海より山派、だし、半ズボンにサンダルスタイルでの生活にもずいぶん抵抗があったんだが、もう慣れた。無精髭も、そのほうがかっこいいとカリオカ女性たちに勧められて半信半疑で始めて、実際は半ば強盗予防(こっちが強盗みたいな面構えになるからね)だったんだが、これにももう慣れた。半ズボン、サンダル、無精髭、つまり孤島のsobrevivente(生存者)みたいな風体である。これにザックを背負って歩き回るから、まずミュージシャンには見えない。
でも、ブラジルでは日本のようにアーチストがアーチスト「らしい」格好(というのがあったような気がする)をしても、あまり意味がないので、どうでもいいのだ。かえって嘘っぽく見られる気さえする。舞台の上でも然り。「質実剛健」アーチストは日本よりブラジルの方が多く見られるのだ。だから見かけに関しては気が楽。
話がそれてしまったが、今週は、はからずも録音休止週間になってしまったので、自然「寄り道日誌」、になってしまう。

今日は、録音のためでなく、最後の引っ越し作業(新居での録音再開のために昨日録音機材を解体したので、キーボードやギターなど残った物とともに運ばねばならないのだ)のためにコパカバーナ旧居へ。
Roberto Carlosロベルト・カルロス(同名だがサッカーの元ブラジル代表選手ではない。40年にわたって"Rey=王様"と国民に呼ばれる"ブラジル代表"歌手で、こちらのほうが、元祖?ロベルト・カルロス)のピアニストWanderleyヴァンデルレイがコパカバーナのホテルに到着したので、彼が参加してくれた"Reza" 、"Bonita"の2曲の仮ミックスCDを手に訪ね、昼食をともにした。Roberto Carlosが参加するTVグローボ局(ブラジル最大のテレビ局)の年末ショーのための訪リオだが、リオでピアノを弾く仕事を見つけて、そのまま半月ほど、残ってみたいと考えているようだ。いつもひょうひょうとした風情で、冗談ばかり言ってる人だが、「世界で、唯一住みたいところ、それはコパカバーナだ」と、これは冗談ではないらしかった。ちなみに彼は生粋のパウリスタ(サンパウロ人)である。
昼食後、僕の出ようとしている旧居を見せたら、「こりゃ、いいわい」と気に入って、そのまま引き継いで住みたいようなことを言っていた。Wanderley夫妻に住んでもらえれば、光栄だ(といっても僕の持ち物じゃないんだが)。彼の滞在中に名歌手Tito Madiチト・マーヂを、一緒に訪れてみたいと思っている。僕の新アルバムにも、またWanderleyの新アルバムの計画にも、Tito翁の名曲"Chove la fora"が入っているのだ。

リハーサルに行くWanderleyと別れて、午後は旧居でペンキ塗りやら何やら、ごそごそと。僕もやはり日本人、「飛ぶ鳥あとを濁さず」の精神がしみついていて、自分で汚したところをそのままには去ることができない。

明日は友人のAntonio Carlosアントニオ・カルロスおじさん(アマチュアだが、すご腕のギタリスト)のお宅に昼食に招かれている。僕への誕生日プレゼント(手作り卓上譜面台。彼は手先が器用だ)が用意してあるというので、そんなに招待を延期させるのも失礼だ。なので録音はやはり明日も休みだ。なぜって、彼は極上手作りカシャーサ(ピンガともいう。ブラジル名物のさとうきび焼酎)も用意して待っているからだ。40度もある酒をあおってから、とても録音なんかできない。
ブラジルは「アミーゴ文化」と、ある日系カリオカが言っていたが、その通りだと思う。仕事への専念を理由に、ほうぼうの交友を疎遠にしておくのも、この国では、たいがいにしておかなければならない。

さて、フラメンゴに帰るかな。今日の荷物は重いぞ。タクシーだな、こりゃ。



2007年11月27日(火)

引っ越しから一週間。肉体疲労も去り、新しい住居にも少しずつ慣れて、 「おにぎり」かついでのコパカバーナ・スタジオ(旧居)通いもリズムに乗り、録音も順調・・と言いたいところだが、いやあ大変だった、"REZA"の録音。初日は前に書いた通り、体調不全で断念。 翌日、再トライは、うまく行ったに見えたが、20テイクも録りながら、録音レベル(ボリューム)不足、つまり操作ミスで、すべてNG。不足と言っても、ほんのちょっとの差なんだが、声の芯の太さが足りなくなるのだ。ああ難しい。 さすがにメーター見ながら、歌えないからねえ。そして「3日目の正直」にかけたさらに翌日、これは操作は完璧だったが、後ですべて聴いたころ、歌そのものが「ダメ」だった。声が素直に前に出ていなかった。そして、音程も悪い。発音も、ある箇所で「なまり」があった。よって3日目も敗退。おお、この曲で、4日目に突入するとは思わなんだ。長年、もう10年以上も歌い続けてきた「おはこ」中のおはこなのに。 キーを以前より全音下げたことで、声帯使用モードの高・中・低音の切り替え調整が微妙に難しくなったせいだろうか。今さら「音痴」になったとも考えにくいし。しかし本当は、おれは音痴なのかもしれないな、などと真剣に考えたりもした。(僕の考えでは、声には高中低の3段階モードがあって。それぞれ声帯の筋肉の使い方が異なる。つまり高域から中域または低域に一瞬で移行するときには、一瞬で筋肉の使い方も変化させねばならないのだ)

さて、昨日、4日目のトライ。もう後はないぞ、もう「ライア、ラダイア」と祈りを唱え続けるのはごめんだぞ、とじぶんに言い聞かせながら("REZA"のサビ部分はこの「ライア、ラダイア、サバタナベマリア」という奇妙な文句が6度も出てくるのだ)。たぶん階下の住人にも、毎日この「ライア、ラダイア」が聞こえてるだろうと思えば、なんだか気の毒にもなって、早く終わらせなければ、と気合いも入る。 また20テイクほど録って、「総見」(と勝手に呼んでいる。見るのでなく聞くのだが。ざっと全て聞きながら、ミスなどをノートにチェックする。またいい録音部分があると「美!」の印が入る。)。ああよかった。クリアーした。胸をなでおろして、またザックを背負って、フラメンゴの新居に帰宅。リオは、急に夏のような気候になって(まだ春である)、午後じゅう閉め切っていた部屋は、夜でもむっとする暑さ。明日は録音しないから、と思い切り冷たいビールを、くわーっとやる。 白ワイン、そして赤ワイン、ついでに、禁止しているウイスキーも氷を入れて、ちびりとやる。今度のアパートにはケーブルテレビがないので、ブラジルの地上波チャンネルしか見られない。あまり面白いものはない(どこの国も同じだ)ので、本を読みながら眠りを待つ。リオに一昨年来た中浩美さん(偉大なピアニスト、友人)が置いて行ってくれた松本清張を初めて読む。ほう、文体が拙いなあと驚くが、不思議なことに、ずるずると小説世界に引き込まれて、1時間、2時間と過ぎてしまう。いかん、眠らなければ。が、先が知りたい。なるほど、これが魅力なんだな、と感心する。

今日は昨日録った"REZA"の仮編集。いくつかの最良テイクを使って、一応のOKトラックを作る作業だった。よし、だいたいこんな感じになるな、と確認する。でないと、安心して次の曲にとりかかれないからね。美空ひばりみたいに、3テイク録って、「あとは適当に選んでちょうだい」とか言い残して去ってしまうのが理想だが。しかも彼女の場合は、編集も不要だったろうな。

今夜は、サンパウロの友人、川原崎が珍しくリオに来る(彼はリオが大嫌いだ)ので彼の注文通り、スーパーでanchovaアンショーバ(ブラジルの魚。大きい。塩焼きが絶妙なおいしさ)を買ってフラメンゴに帰宅予定。なんでも、芋焼酎を持ってくるので、そのつまみを用意しろということだ。リオで、芋焼酎、ねえ。彼は、焼酎については本格派だから、お湯割りだろうか。暑いぞ、今夜も。



2007年11月21日(水)

先の文章を掲示板に載せたのがきっかけで、ようやくリオの生活、新アルバムの録音レポートを航海日誌として記し始めることにしたがしかし、書く気になるまでなんと4年もたってしまった。そして「航海日誌」も、いったい何年の中断であったろうか。 以前の航海日誌は「日誌」というには気合いが入りすぎていたために息切れしてしまったので、今度は気合いいれずに「日記感覚」で書いてできるだけ続けてゆこうと思う。

おととい月曜に3年間住んだコパカバーナからフラメンゴに引っ越しをしたのだ。ブラジルでの4年の間に荷物が相当な量に増えていて、搬出入と軽トラックへの積み降ろしで、それは重労働だった。二日たった今でも、体じゅうの筋肉が「乳酸停滞」状態。歳のせいかな(先の土曜日、43になってしまった)、回復が遅くてね。

しかし、新アルバムの録音(各楽器の録音は終了していて、歌唱の録音中。つまり最終段階)はまだ終わっていないので、体にむち打って、昼食後コパカバーナの旧居へ(録音のためだけにあと半月借りている。寝室がスタジオ環境になっている)。いつものように"vinho do porto"をちょっとやってから、マイクの前に立ち、さあ発声!今日の相手はEdu Loboの"Reza"だ。が、ありゃ、腹に力が入らない。高音が出づらい。おまけに息が続かず、へなへなと椅子に倒れ込む始末。やはり乳酸の仕業だ。腹筋や背筋や横隔膜のコントロールが不十分。こりゃだめだと早々にあきらめ、今日のところは練習にとどめる。休憩中、Rezaのピアノを録音してくれたWanderleyヴァンデルレイが懐かしくなってサンパウロの彼に電話。奥方のAngelaアンジェラも懐かしく。なんと来週、"Rey(王様)"Roberto Carlosホベルト・カルロスのショーのためにリオに来るという。再会が楽しみ(Wanderleyはあの"ミルトン・バナナ・トリオ"の初代ピアニストとして8枚アルバムを録音。その後Roberto Carlosの専属ピアニストとして40年以上のキャリア)。

もう録音機材以外は、すべて新居に移動してしまったのでこの旧居はガランとしている。が、電話がまだ移転されていないのでメールチェックとこの日誌は、ここで済ませねばならない(僕のネット環境は電話アナログ回線)。i-macに向かおうとしたところで、不意の来客。僕の"LIla"のポルトガル語詞の作者で、新アルバムにも同曲のデュエットで参加してくれた歌手のクラウヂオだ。彼は、「不意」の訪問が多い。または約束した時間から数時間遅れての到着、か。タバコを一本二本吸いながら、計画中の演劇の話しを「もうからない仕事だし、役者じゃなくて、プロデュースで参加してくれってのがどうも気に入らないんだよ」と言葉はネガティブだったが、それとは裏腹に顔が幸せそうで、久々の仕事の話に、心が躍っているようだった。

さて「航海日誌リオ篇」第二回を終えるところで友人Patriciaパトリシアから電話。「今日BipBip 行くの?」そう、今日は水曜日。バーBipBip(ビッピ・ビッピと読む)で恒例のRoda de bossaホーダ・ジ・ボッサ(ボサノヴァの輪)の日だ。3年通って今では、僕が責任者代行みたいな立場なので行かなきゃいけないんだが、今日は乳酸停滞状態。さぼろうと思ってた。「私も行かないつもりだったんだけどAlfredo(超名物店長。ここのところ病気で休んでいた)が復帰して、私たち("ボサ輪"の連中)のこと待ってるらしいのよ」とのこと。これでは、放っておけない。ということでいざ、Bipへ。



2007年11月14日(水)

現在はね、歌の最後の「録音マラソン」中。全15曲。一日一曲。ディレクターとかいないからね、録音しながら、人にどう聞こえてるか実際わからないので気力、体力(立って歌うので、脚が疲れる。腹筋も相当)の続く限り、そう、だいたい一曲につき30テイクは録るね。3、4時間かけて。そんな録り方してるやつどこにもいないだろうと思う。

でも、確かに10テイク過ぎたあたりで、「来た!」ていう感じが、いつもある。ノドやら各所筋肉のウォームアップと、歌の世界への没入のポイントがその辺にあるようです。で、そのまま調子に乗って、ばんばん録って、ああもう疲れたなあ、もういいよ、まいった、というところでおしまい。まれに、最後の30テイクめあたりが一番よかったりもするので、この方法はやめられないのです。たった3時間の仕事でも、これを3日続けると、まず翌朝立ち上がるのがしんどいです。ものすごい集中力の3時間なんでしょうね。なんだか、「さあこい、勝負!」て感じの3時間。でも酒飲みながら録ってると言ったら、「なあんだ」と言われるかもしれない。いえ、楽しむ酒じゃなくて、「薬」としての酒なのです、この場合。使用してるマイクの感度のせいで、普通に歌うと、舌やノドの雑音(プチャってやつ)がはっきり入ってしまうので、それを防ぐため、つまり唾液をより出すためにアルコールが良いと、義兄(耳鼻咽喉科医師)が教えてくれたのです。ボサノヴァだからね、日本酒は合わない。"vinho do porto"(日本ではポートワインっていうのかな)です。酔っちゃったらいけないので、飲むというよりは、なめる感じで。

あとは自宅録音の難しさで、近所の騒音が、だいじな、ラストのピアニッシモのあたりで入ってしまったりね。今日もあった。おお美しいエンディング!というところで、「ピーポーピーポー!」とサイレンの音。電気のこぎりとか、トンカチとか、もう様々な音を録ってしまいました。自分であとで大笑いするのは、ミスで演奏ストップした後「難しいなあ」とかひとりごと入ってるときね。まあ、そんな毎日ですよ、皆さん。マラソンは今月末で終了の「予定」。




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